木牛流馬は動かない

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幸福の歴史を振り返る / 書評『サピエンス全史』(7/8)

※このエントリーは、書評『サピエンス全史』シリーズの7回目です。 前回はこちら。  

今回は、歴史は歴史でも、いわゆる「世界史」的な話ではありません。
我々サピエンスにとって、最も重要な概念である「幸福」についてのお話。

(ネタバレありです。未読の方はご注意を)

幸福も虚構なのか?

だが、私たちは以前より幸せになっただろうか? 過去五世紀の間に人類が蓄積してきた豊かさに、私たちは新たな満足を見つけたのだろうか? 無尽蔵のエネルギー資源の発見は、私たちの目の前に、尽きることのない至福への扉を開いたのだろうか? さらに時をさかのぼって、認知革命以降の七万年ほどの激動の時代に、世界はより暮らしやすい場所になったのだろうか? 無風の月に今も当時のままの足跡を残す故ニール・アームストロングは、三万年前にショーヴェ洞窟の壁に手形を残した名もない狩猟採集民よりも幸せだったのだろうか? もしそうでないとすれば、農耕や都市、書記、貨幣制度、帝国、科学、産業などの発達には、いったいどのような意味があったのだろう? - 『サピエンス全史』

おそらく本章、そして上記の問題提起が、著者が本書を通して(そして歴史学者として)最も伝えたいメッセージではないかと思います。 つまり、歴史は人類を幸福にしたのか?ということ。

これまでの章で語られてきた世界史は、すでに教科書などで知っている(少なくとも学校で教わっている)ことです。 「虚構」という新しい視点で歴史を再構築した価値は計り知れないほど大きいものと思いますが、その記述はすべて本章で幸福について語るための序章であったように思います。

さて、著者によれば、これまでほとんど幸福についての研究はなされていない、とのこと。 ならば、新しい学問にもなりうるわけですが、そのとき念頭に置くべき考え方について、著者は以下のように警告します。

地球全体の幸福度を評価するに際しては、上流階級やヨーロッパ人、あるいは男性の幸福のみを計測材料とするのは間違いだ。 おそらく、人類の幸せだけを考慮することもまた誤りだろう。 - 『サピエンス全史』

このために、著者は軽薄で安直なあらゆる主義・主張を否定します。 人類はその能力を歴史とともに発達させてきたという進歩主義、逆の立場で昔のほうが能力を活かせていたというロマン主義、またこれらのいいとこ取りした主張も、ことごとく「単純化が過ぎる」と切り捨てます。
あるいは、これまでの章で語られてきた家畜や奴隷の扱いも、若干ムリヤリ感があっても敢えて言及してきたのは、ここにつながってくるからです。

家畜や奴隷を無関心に許容していることに対して、彼らに対しては、実際そのことを忘れないことくらいしかできません。 しかし、「地球全体の幸福」を考えるときには、サピエンズが絶滅させてきた数多の動植物や環境変化(著者は、サピエンスに環境破壊はできない、と述べます)は、地球全体の生態系を狂わせ、ひいてはサピエンス自身を絶滅に追いやる、という未来につながりかねません。

非常に壮大なスケールの難しい話になっていますが、『サピエンス全史』を読むとはそういうこと。 その先に向かうために、今こそ人類は幸福について考えることが求められているようです。

とはいえ、どの期間を測るかによって、その結果は如何様にも変わりえます。 小説の技法でよく言われることですが、物語をどこで終わらせるかによってハッピーエンドにもなるし、バットエンドにもなる。 あなたは、どこで区切りますか?

sp.yomiuri.co.jphttp://sp.yomiuri.co.jp/world/20170721-OYT1T50035.html
(↑ロボットに懺悔する教会は幸福なのかな?かな?)

幸福度を測る

なにか物事について考えるなら、まず現状把握です。
今の幸福度を測るにはどうすればいいか。

実際の研究では、いまは主にアンケート形式の聞き取りが行われているようです。 つまり、主観として幸福と感じているかどうか。

例として、国民の幸福度向上を一義に掲げるブータンを見てみましょう。

2年ごとに聞き取り調査を実施し、人口67万人のうち、合計72項目の指標に1人あたり5時間の面談を行い、8000人のデータを集める。これを数値化して、歴年変化や地域ごとの特徴、年齢層の違いを把握する。国内総生産(GDP)が個人消費や設備投資から成り立つように、GNHは 1.心理的幸福、2.健康、3.教育、4.文化、5.環境、6.コミュニティー、7.良い統治、8.生活水準、9.自分の時間の使い方の9つの構成要素がある。GDPで計測できない項目の代表例として、心理的幸福が挙げられる。この場合は正・負の感情(正の感情が 1.寛容、2.満足、3.慈愛、負の感情が 1.怒り、2.不満、3.嫉妬)を心に抱いた頻度を地域別に聞き、国民の感情を示す地図を作るという。どの地域のどんな立場の人が怒っているか、慈愛に満ちているのか、一目でわかるという。 - 国民総幸福量 - Wikipedia

地域別に分析しているのが特に秀逸だと思います。
これは意外だったんですが、ブータンの平均幸福度は、日本のそれよりも下回っているとのこと。 しかし、現時点のポイントが低くても、このような指標を取り入れていることには長期的に大きな意味がありそうです。 他にもこのような指標を取り入れる国が増えて、政治や教育がどう変わるのか比較した研究結果なんかも見てみたいところです。

さて、その結果と、社会学・心理学・生化学などの知見を合わせると、人類が感じる幸福度はセロトニンドーパミンオキシトシンの分泌量によることがわかってきました。 そして、外的要因(社会的、経済的、政治的な活動)はその量を一時的に上下させることはあっても、1000年前の人間より現代の人間のほうが幸福を感じているかというと、そんなことはない、ということまで。

身も蓋もないとは、まさにこのこと…

ここで残酷な考察が紹介されます。

ただし、きわめて大きな重要性を持つ歴史的な展開が一つだけ存在する。 その展開とは、今日、幸せへのカギが生化学システムの手中にあることがついに判明し、私たちは政治や社会改革、反乱やイデオロギーに無駄な時間を費やすのをやめ、人間を真の意味で幸せにできる唯一の方法、すなわち生化学的状態の操作に集中できるようになったことだ。 - 『サピエンス全史』

ほう、生化学、つまり薬で幸せになれると。 本当に、これが真実だとすると、もう人類の未来は高度に発達した科学によって操作されるディストピアになってしまうのでは?

さらに追い打ち。 人生に意味があると感じるのは個人の自由ですが、これは妄想にすぎません。

ちなみに私は、この真理には概ね同意しています。 所詮この世は諸行無常(それでも意味を見出して、それに向けて生きるべき、という主義にも、同意します)。

しかし、著者はこれと幸せを結びつけ、以下のように結論づけています。

幸福は人生の意義についての個人的な妄想を、その時々の支配的な集団的妄想に一致させることなのかもしれない。 私個人のナラティブが周囲の人々のナラティブに沿うものであるかぎり、私は自分の人生には意義があると確信し、その確信に幸せを見出すことができるというわけだ。 - 『サピエンス全史』

ふむ。 幸福は周囲との関係で決まると。 これだけならよいのですが、生化学システムの操作という文脈で語ると、絶望しか感じられませんわ。

なぜなら、もし主観的感情を絶対的基準にすると、究極的にこれ↓になってしまうわけですから。 本当に恐ろしい…

もちろん、著者はここで議論を止めません。 著者が提示した(絶望に対する)希望への一筋の光がこちら。

幸福とは(快感であれ、意義であれ)ある種の主観的感情であり、ある人の幸福度を判断するためには、どう感じているのかを尋ねるだけで足りるというものだ。 - 『サピエンス全史』

…ん? ここで違和感が見えてきましたね。

歴史上、大半の宗教やイデオロギーは、善や美、正義については、客観的な尺度があると主張してきた。 そして、凡人の感情や嗜好には信用を置いていなかった。 デルポイアポロン神殿の入口では、「汝自身を知れ」という碑文が巡礼者たちを迎えた。 これは暗に、普通の人は自分自身の真の姿を知らず、それゆえに真の幸福についてもおそらく無知であることを示唆していた。 - 『サピエンス全史』

つまり、主観的感情を幸福度の判断に使うのではなく、別の観点が必要という立場が必要ということ。

そこで著者は、救いも提示してくれています。 著者がその手段として最も重要視して考察しているのが、なんと仏教

人間は、あれやこれやのはかない感情を経験したときではなく、自分の感情はすべて束の間のものであることを理解し、そうした感情を渇愛することをやめたときに初めて、苦しみから解放される。 それが仏教で瞑想の修練を積む目的だ。 - 『サピエンス全史』

私は一般的日本人同様の「薄い」仏教徒仏教のド素人ですが、ここでいう仏教は特定の宗派を指すわけではなさそうです。 私は、それは仏陀(釈迦)本来の教えのことであると考えます。 少なくとも私の理解では、仏教の宗派は仏陀の教えに対する解釈やどこに重きをおくかの違いに過ぎませんので。 いまの幸福度を考える文脈においては、実際それは、宗教ではなく科学または哲学に分類される議論がふさわしいように思えます。 そのためにも、特定の宗派の都合ではなく、論理としての仏教が必要になります。

そう書いておきながら科学的ではない所感になりますが、私はここで仏教による救いが存在するという事実(信仰)と、そこに議論を持っていく著者に感動してしまいました。 私にとっては、これまでモヤモヤと「真に幸福を感じるには仏教しかない」と思ってはいましたが、それが明確に示された形になるわけですから。 やっぱりそこしかないよね!

仏教はまだまださっぱり分からないことだらけなので、個人的に今後も考えていきたいテーマです。 しかし、仏教もこれまでの他のどの考え方よりも、幸福についてうまく説明できる、というだけかもしれません。 今後さらに真実に近づける考え方が登場する可能性も、もちろんありますし、それが出てくるのが楽しみです。

その後は?

仮にこれまでの「全史」をもとに幸福度を測ることができたとして、その先をどうするか?が気になるところ。

たとえば、政治家が考える西暦2500年と、経済アナリスト、進化生物学者、人工知能研究者、心理学者、哲学者、SF作家、占い師、美輪明宏などがそれぞれ考える西暦2500年について、幸福度を同様の手法で評価できるでしょうか? そして、国民投票の結果で、最も多い得票数のシナリオに沿って進んでいくことになるのでしょうか?

まぁそんなことにはならないと思いますが、サピエンスの未来については、次章。 または、著者による続編『Homo Deus』でも触れられているようです。 これも読みたいけど、日本語訳待ち。

Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

今回はここまで。 次回、『サピエンス全史』書評シリーズ最終回です。


(↑本書とは何の関係もありませんが、BGM代わりにどうぞ)

参考文献

瞑想法の極意で開く精神世界の扉

瞑想法の極意で開く精神世界の扉