書評『「いき」の構造』
積読を1冊消化しました。
「いき」についての本です。
江戸っ子の生き様でよく言われる、アレです。
「いき」とは何か?
Location: 282
我々が問題を見ている地平にあっては、「いき」と「 粋」とを同一の意味内容を有するものと考えても差支ない
私は昔から江戸時代の庶民文化に興味があるのですが、そのアイデンティティたる「いき」をちょっと読んでみたのがきっかけ。 ところが、これが予想外に深い話だったので、記事にまとめておきます。
「いき」という現象とそれに伴う感情の哲学的分析として、よくまとまっています。 それにとどまらず、芸術論まで考察が進むことから、個人的興味のツボでした。
系譜としては、以前紹介した『ひとを<嫌う>ということ』と同じカテゴリです。
正直、感情の分析は読むだけでも難しいのですが、もし興味がある方は、両方ともオススメです。
euphoniumize-45th.hatenablog.com
書籍情報
『いきの構造』
九鬼周造 (1888~1941)
- 序説
- 「いき」の内包的構造
- 「いき」の外延的構造
- 自然的表現
- 芸術的表現
紹介文(Amazonより引用)
近代日本哲学を代表する哲学者、九鬼周造による最も著名な哲学論文。初出は「思想」[1930(昭和5)年]。同年には単行本の初版が刊行されている。ハイデガーに師事し、西洋哲学を学んだ九鬼が、「いき」という日本独自の美意識を、現象学によって把握しようとした試みであり、日本思想史研究および日本文化論における代表的文献である。
青空文庫にあります
「いき」の構造
目次のとおり、本書では「いき」を4つの観点から分析します。
1. 内包的構造
「いき」の第一の徴表
Location: 137 まず内包的見地にあって、「いき」の第一の徴表は異性に対する「 媚態」である。異性との関係が「いき」の原本的存在を形成していることは、「いきごと」が「いろごと」を意味するのでもわかる。「いきな話」といえば、異性との交渉に関する話を意味している。
これはまぁ前提ですね。
Location: 158 媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。
ここが重要。極限のギリギリのところのせめぎあいが、媚態の妙。
「いき」の第二の徴表
Location: 165 「いき」の第二の徴表は「意気」すなわち「 意気地」である。意識現象としての存在様態である「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されている。
こだわりをもつこと、とも言えます。ものに対する、というより、自分に対する、かな。
「いき」の第三の徴表
Location: 197 「いき」の第三の徴表は「 諦め」である。運命に対する知見に基づいて 執着 を離脱した無関心である。「いき」は 垢抜 がしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、 瀟洒 たる心持でなくてはならぬ。
こだわるけど、固執しない。矛盾しているようですが、それを共存させることが「いき」なのです。 ある意味の「軽さ」とも言えますね。
ここまでのまとめ
Location: 229 以上を概括すれば、「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。そうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。(中略)すなわち「意気地」は媚態の存在性を強調し、その光沢を増し、その角度を鋭くする。媚態の二元的可能性を「意気地」によって限定することは、 畢竟、自由の擁護を高唱するにほかならない。第三の徴表たる「諦め」も決して媚態と相容れないものではない。媚態はその仮想的目的を達せざる点において、自己に忠実なるものである。それ故に、媚態が目的に対して「諦め」を有することは不合理でないのみならず、かえって媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである。
2. 外延的構造
前章では「いき」そのものがどういうものか、を見てきました。 ここでは「いき」と意味合いの近い現象や対立的に扱われる事象について、比較しながら分析をしています。 扱われるのは、上品と下品、派手と地味、意気と野暮、甘味と渋味。これらが「いき」とどう関わるのでしょうか。
Location: 309 「上品」や「派手」が存在様態として成立する公共圏は、「いき」や「渋味」が存在様態として成立する公共圏とは性質を異にしている。そうしてこの二つの公共圏のうち、「上品」および「派手」の属するものは 人性的一般存在 であり、「いき」および「渋味」の属するものは 異性的特殊存在 であると断定してもおそらく誤りではなかろう。
いきなりですが、正直ここはよくわかりませんでした。 「上品」「派手」は個人で完結しますが、「いき」「渋味」は相手となる異性がいて初めて意味を持つ、ということかな。 そうだとすると、ここで前章の「媚態」の有無が、これらを分けるものになるかと思います。
Location: 346 一般に上品に或るものを加えて「いき」となり、更に加えて或る程度を越えると下品になるという見方がある。上品と「いき」とは共に有価値的でありながら或るものの有無によって区別される。その或るものを「いき」は反価値的な下品と共有している。それ故に「いき」は上品と下品との中間者と見られるのである。
ここはまぁ直線的でわかりやすいですね。
ただし、「或るもの」が何なのか?については本書で触れられていません。「媚態」に近いものとは想像できますが、はっきりとは分かりません。
Location: 350 派手― 地味 とは対他性の様態上の区別である。他に対する自己主張の強度または有無の差である。 派手 とは葉が外へ出るのである。「葉出」の義である。 地味 とは根が地を味わうのである。「地の味」の義である。前者は自己から出て他へ行く存在様態、後者は自己の素質のうちへ沈む存在様態である。自己から出て他へ行くものは華美を好み、花やかに飾るのである。自己のうちへ沈むものは飾りを示すべき相手をもたないから、飾らないのである。
これらは、あくまで積極性あるいは趣味性の違いだけで、どちらのほうが価値があるという判断を含んでいない、というところがポイントです。
「いき」との関係では、派手も地味も「いき」である部分はそれぞれもちますが、異なる部分もそれぞれ持ちます。
ここから考えると、「いき」は派手と地味の直線的な中間ではないにしても、両者の間にあるものと見てよさそうです。
ところで、派手は下品で地味は上品、という価値観が見られることがあります。 これは地味が「さび」に近いものであるためです。なぜなら、「さび」は、「いき」の第3要素「諦め」を含むから。 ここはかっこいい考察です(語彙)。
Location: 373 意気― 野暮 は異性的特殊性の公共圏内における価値判断に基づいた対自性の区別である。もとよりその成立上の存在規定が異性的特殊性である限り、「いき」のうちには異性に対する 措定 が言表されている。しかし、「いき」が野暮と 一対 の意味として強調している客観的内容は、対他性の強度または 有無 ではなく、対自性に関する価値判断である。
ここは「いき」と意気の区別が難しいところ。正直読んでもよくわからなかったです。
Location: 430 渋味と地味とは共に消極的対他性を表わす点に共通点をもっているが、重要なる相違点は、地味が人性的一般性を公共圏として甘味とは始めより何ら関係なく成立しているに反して、渋味は異性的特殊性を公共圏として甘味の否定によって生じたものであるという事実である。したがって、渋味は地味よりも豊富な過去および現在をもっている。渋味は甘味の否定には相違ないが、その否定は忘却とともに回想を可能とする否定である。逆説のようであるが、渋味には 艶 がある。 (中略) そうして、甘味を常態と考えて、対他的消極性の方向へ移り行くときに、「いき」を経て渋味に到る路があることに気附くのである。
甘さがあると、「意気地」でなくなり、また「諦め」もありません。
ここから「いき」または渋味へ向かうには、ある種の「否定」を経験しなければならないのです。
そこを噛み砕いて飲み込んだとき、ようやく「いき」が見えてくるのです。
3. 表現的構造
この章では、一般的に「いき」と呼ばれる現象を列挙します。
それだけといえばそれだけですが、なかなか細かい分析がされており、その対象は、全身、顔面、目、口、化粧、髪、頸(くび)、衣服、裾さばき(脛)、足、手と非常に細かい。
その中で特に紹介しておきたいものだけ簡単にまとめます。
Location: 569 しかるに西洋の絵画では、湯に入っている女の裸体姿は往々あるにかかわらず、湯上り姿はほとんど見出すことができない。
これはたしかにそのとおり。 ちょうど同時期に西洋絵画集を読んでいたところだったので(Kindle Unlimited最高)、よくわかります。
ところで、江戸時代の湯屋は、基本的に混浴なんです。 にもかかわらず、湯上がりを「いき」と捉えるのは、矛盾しているようにも思えるし、筋が通っているようにも思えて興味深いです。
Location: 576 細長い形状は、肉の衰えを示すとともに霊の力を語る。精神自体を表現しようとしたグレコは、細長い絵ばかり描いた。ゴシックの彫刻も細長いことを特徴としている。我々の想像する幽霊も常に細長い形をもっている。「いき」が霊化された媚態である限り、「いき」な姿は細っそりしていなくてはならぬ。
幽霊といえば、丸山応挙『幽霊図』。 どんな絵を描くときも写真かと見紛うばかりの微細なスケッチを行った応挙が、おそらく日本で(つまり世界で)初めて、「足のない幽霊」を描いた。それは、どこで見たのかな?かな?
たしかに、美術素人(私)の印象にすぎませんが、豊満な肉体を持つ絵は俗っぽいことが多いように思えます。特に近世。 細長い絵は、霊的というよりは精神的な表現が多いのかもしれないです。
4. 芸術的構造
芸術作品は、「いき」でなければなりません。 また、「いき」は芸術でもあります。
本章では絵画、建築、音楽について「いき」の考察がされています。 先の章と同じく、本章では「いき」な芸術的特徴について列挙しています。が、そこに特筆すべきことはありません。
横縞より縦縞の方が「いき」であるドヤァ、と言われても、「ふーん」としか言えないですし。
音楽にも言及があるので1つだけ紹介。
Location: 1,007 そうして「いき」は 正にこの変位の或る度合に依存するものであって、変位が小に過ぐれば「上品」の感を生じ、大に過ぐれば「下品」の感を生ずる。
メロディの変化(音の高低の差)が小さいと「上品」で、大きいと「下品」なのだそうです。 上品・下品の判断基準が、日本においてだけでも時代によって変わる気はしますが、日本の伝統的な音楽(雅楽とか箏曲とか)は「上品」なものが多い気はします。 ポップスやロックがほぼない時代の著作なので、まぁ聞き流していいかなと思いますが。
ところで、日本の伝統的な楽器に、擦弦楽器がほとんどありません。おそらく胡弓だけ(調べてません)。
擦弦楽器とは、たとえばヴァイオリンで、弦と弓をこすることで音を出す楽器です。これは、1つの音を一定の音量で長く伸ばすことが可能です。
一方、日本の伝統的な楽器は、撥弦楽器が多いです。琴とか三味線とか。これはギターと同じで、弦をはじくことで音を出します。 つまり、音を出した瞬間が最も強く、その後はどんどん減衰していきます。
日本にはこの発音原理をもつ撥弦楽器が多いことから、文化として「いき」の軽さにつながっているのではないかとも推測できます。
いまの時代で「いき」を知る意味
内容的には私はとても興味深く読んだのですが、その記述はかなり文脈が重要なものです。つまり、1文や2文だけ引用しても意図が伝わらない。 このことは本書でも言及されています。
Location: 1,085 「いき」は個々の概念契機に分析することはできるが、逆に、分析された個々の概念契機をもって「いき」の存在を構成することはできない。「 媚態」といい、「 意気地」といい、「 諦め」といい、これらの概念は「いき」の部分ではなくて契機に過ぎない。それ故に概念的契機の集合としての「いき」と、意味体験としての「いき」との間には、越えることのできない 間隙 がある。換言すれば、「いき」の論理的言表の潜勢性と現勢性との間には 截然 たる区別がある。我々が分析によって得た幾つかの抽象的概念契機を結合して「いき」の存在を構成し得るように考えるのは、既に意味体験としての「いき」をもっているからである。
私たち自身が「いき」である民族的背景を持ち、また個人的体験・記憶がすでにあるからこそ、「いき」が理解できるのであって、一つの側面を切り取っても本質は見えてこないのです。 捉えようとすると見えなくなる、まるでシュレディンガーの猫みたいですね。
今の時代、インターネットの普及によって個人の発信力が強くなっていることは言うまでもありませんが、そういう時代に自分の文化的・民俗的な背景を知っておくことは意味があると思います。国内でも、外国の人々と関わる上でも。
そんなときに、明確に意識はしていないにしても(少なくとも私はそうです)、「いき」は日本人のアイデンティティの1要素であることは間違いないです。
「いき」な生き方をすべき、なんて言うつもりはありませんが、どんなものか知っておくのも悪くないのではと思います。
Location: 1,102 意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が 懸っている。実際的価値の有無多少は何らの問題でもない。そうして、意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである。
この記事では、引用できるところの中でも重要そうなところだけを紹介したつもりです。 しかし、もし興味を持たれた方がいれば、ぜひ本書をじっくり読んでほしいです。 若干言葉遣いが古いので現代人には読みづらいですが、そんなに長くないです。