木牛流馬は動かない

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人間文化の歴史をざっと振り返る / 書評『17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義』(2/2)

前回の続きで、セイゴオ先生の講義本まとめです。 今回は、人間文化とはどういうものか具体的に知るため、世界史と日本史を振り返ります。

本書は紙書籍で購入したので読みながらマーカー引いていったのですが、読み終わる頃にはマーカーだらけで、本当に重要な文がどこかもう何が何やら分からなくなってしまいました。 まぁそれくらい面白い本だったということです。

17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義

17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義

人間文化の始まり

初期の人類は、まず物語を作りました。 前回の最後にすこし触れたように、直立二足歩行をできるようになったことで、こちらむこうが生まれ、虚構を認知するようになりました。 これが物語の発祥。

文化の発展にともない、物語神話に発展していきます。 ギリシア神話古事記などがそうです。

もともと、物語はすべて神々の物語でした。人間の想像力でははかり知れないような大いなる力や奇跡に憧れたり、あるいは怖れたりする気持ちが、神話を生み出していった背景にあったのでしょう。また、そういう神々と、自分たちがどこかでつながっているのだという思いもあった。 あるいは自分たちに何か乗り越えられない困難がふりかかってきたときに、神々の偉大な力を思い出したり、そのような力を再生する必要があったのです。

本書 第二講より

本書では、古今東西のあらゆる神話や英雄伝説のもつ共通点を紹介しています。 それによれば『桃太郎』も『スター・ウォーズ』も同じ構成をもっているとのこと。 これはこれで興味深い話でした。

starwars.disney.co.jp 本書に関係ない余談ですが、豆知識。『スターウォーズ』最新作を映画館で観ようとすると、ほとんどの映画館では40%カットされた映像しか観ることができません。日本で「100%」の映像が見られるのは大阪の1館のみ。ヒントはIMAX

さて時代を経ると、しだいに神話と現実のギャップが大きくなってきます。 その折り合いがつけられなくなったところで、論理的矛盾を解決するため宗教が誕生するわけです。

そして不思議なことに、いろいろな初期宗教がほぼBC5~6世紀の同時期に生まれています。 これを創発と呼びます。 なぜ同時期なのか、本書でその理由は明かされませんが、(結果的に)その時期が「神話の時代」の限界だったということのようです。

歴史の傾向からいって、ある文化が臨界点に到達することで、次の文化が生み出されていくことが多いです。 これは宗教にかぎらず、社会や科学技術なども似たような状況が起こります。 ある技術を限界まで究めたところでイノベーションが起こり、「次の時代」へ突入するわけです。

これがまず、神話宗教で起こりました。

hiah.minibird.jp 未来予測系ブログ『希望は天上にあり』では「宗教→政治→経済→技術」の変遷が分かりやすく紹介されています

ゾロアスター

初期宗教のうち、現代まで続く影響力が大きいものの1つが、ゾロアスター教です。 なぜなら、ゾロアスター教は世界で悪魔のイメージを生み出してキャラクタライゼーションした宗教だからです。 キリスト教はこれをうまく取り入れたわけですね。

これの何が現代に影響を与えたかというと、天使と悪魔の考え方の基礎になったということです。 世界を対になる2つの要素で捉える考え方、二分法です。 明確に右か左か判断する、神か人か、現実か虚構か、0か1か。 この考え方が古代ギリシアに端を発する自然科学を発展させていった、のだそうです。 つまり、現代のデジタル技術もここから生まれたと言えるわけですね。

注) これまでも何度も書いているとおり、本書は「人間文化」がテーマの講義録です。 「自然科学」的にこの説が証明されているわけではなく、あくまで「文化」の話であることをお忘れなく。

ちなみにその創始者ゾロアスターは、数学者ピタゴラスと同年代を生きており2人は直接会って話もしていたようです。 古代ギリシアで生まれた数学や自然科学の根本的な考え方は、ゾロアスターピタゴラスが互いに影響を与え合ったものの可能性が高い、とのこと。 これは面白いですね。

アーリア人

インダス文明が衰退した後、インドに移住してきた民族です。アーリアとは「高貴な」という意味。 ちなみに「イラン」は、「アーリア」の別称です。 本書では、アーリア人だけでなくインド・ヨーロッパ語族の成り立ちと変遷も解説されています。

彼らは、自分たちの民族は優秀という意識が非常に強く、この性質がインドのカースト制度のベースとなりました。 カースト制度は長い時を経て、中国にわたり儒教道教の考え方を生み出し、仏教と融合することでさらに形を変えて、そして日本にも伝わりました。 いまでも日本に儒教(的な思想)が広く普及していることは疑いようもないでしょう。こんなところからつながっていたとは驚きです。

一方、アーリア人の性質を悪い方向に使ってしまった例としては、ナチス・ドイツ選民思想がわかりやすいところ。

こうして世界中の文化をたどるのが本書の醍醐味です。

ユダヤ教キリスト教

ここは長くなるし、他の書籍でもいろいろ扱われているところなので、割愛。 「善と悪」の編集工学的な解説は、ものすごく面白かったです。

やる夫がキリストになるようです

イスラム

本書ではイスラム教の文化的意味を扱っているのが、とても参考になります。 実際私は、イスラム教について以下のような教科書的な概要だけはざっくり知っていましたが、いまいちピンときていませんでした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99

イスラムについて本書が注目するのが2点。 それが「ヨーロッパの形成」と「古代ギリシアの知の蓄積」です。

イスラムによって「ヨーロッパ」が生まれた?

8世紀頃から勢力を拡大したイスラム教は、当然ヨーロッパにも進出します。 単なる布教ならまだしも軍隊を持っていたイスラム教は、ヨーロッパにいるキリスト教圏の人々からすれば脅威以外のなにものでもない。

実際、イスラム教vsキリスト教の戦いも起こりました。「トゥール・ポワティエの戦い」です。

この戦いは、フランク王国が勝利し、ヨーロッパは防衛に成功します。 しかし、これには単なる領土的防衛だけでない意味がありました。

もしここで敗けていたら、ヨーロッパはイスラム世界に完全に取り込まれていたかもしれない。たしかにヨーロッパから見れば、これは史上最大の危機を回避した闘いだったといえるわけですね。

本書第三講より

さらに11世紀になると、ヨーロッパ各国は連合して、かの有名な十字軍をイスラムに向けて送り込みます。 十字軍のお題目はご存知のとおり、「イスラム教勢力から聖地エルサレムキリスト教圏に取り戻すため」。

実際には、エルサレムの奪還は成功しますが、遠征は7度も繰り返され、しだいにその内容は領土拡大の侵略戦争に移り変わっていきます。 ここでも著者が注目するのは十字軍の文化的意味。

ヨーロッパにとって大きな成果があったのは、イスラムという大きな敵と戦うことによって、ヨーロッパに初めて連帯感がもたらされたということでした。 (中略) 聖地奪還を大義名分とした戦争をおこしたことによって、ヨーロッパという領域とキリスト教世界とがほぼぴったりと重なっていくことになったからです。

本書第三講より

これも歴史上、非常によく見られる光景ですが、共通の強大な敵が現れる(または設定される)ことで自陣を結束させたりそれをより強固なものにしていくというもの。 戦闘力53万の巨悪が現れたら、憎き仇とも協力せざるを得ないわけです。

それまでのヨーロッパは小さい国々がバラバラに群雄している地域であり、地域としてのまとまった民族性はありませんでした。 キリスト教会にもさまざまな流派があり、それぞれの活動は統一されたものではありませんでした。 それが、十字軍によってまとまった。

キリスト教イスラム教の接点であるエルサレムは、ご存知の通り現代でも世界的課題の土地です。 本書にエルサレム問題の「政治的な」解説はありませんが、その経緯となる両宗教の文化的背景については本書を読むことで理解できることも多いかと思います。

古代ギリシアの知の蓄積

イスラムのもつ文化的意味の2つ目が、こちら。

古代ギリシアが非常に発達した文化や技術をもっていたことはご存じかと思います。 ソクラテスプラトンの哲学、アリストテレスの自然科学、ユークリッド幾何学プトレマイオス天文学など、枚挙に暇がありません。

しかし、これがキリスト教の普及に伴い、断絶してしまったのです。あぁもったいない。 私自身、世界史を眺めていても、どうも古代ギリシアと中世ヨーロッパがつながらなくて、ずっと違和感をもっていたのですよ。

ところが、この知は無くなってしまったわけではありませんでした。 これらをアーカイブして残してくれていた人々がいました。 それがイスラム。マジグッジョブ。

イラクの首都バグダードには「知恵の館(バイト・アルヒクマ)」と呼ばれる当時世界最高の情報センターがあり、ここにはあらゆるギリシア語の文献が収められていました。 しかも、ただ蓄積されたわけでなく、ヘレニズム文化との融合も経て、独自に発展させていた。

たとえば、タラス河畔の戦い(751年)では、アッバース朝が唐に勝利しました。 ここでイスラム世界が得たものは、紙の製法。それまで紙の製法は唐のみが知っており門外不出だったそうです。 紙を得たことで、イスラム世界の文化の発達スピードが上がったことは間違いありません。

他にも、インドで数学が花開いたのもイスラムの学問が基礎になっていたりと、こんな具合にイスラム関連トリビアは、ちょっと調べるだけでもいくらでも出てきます。 やばい、イスラム面白くてハマりそう。。。 つーか、学校でもっとイスラムちゃんと教えてくれよ!

さて話を戻して。

中世になるとヨーロッパにこれらの知識体系が戻っていきます。 当然ながら、キリスト教の教義とこれらの知識は矛盾するところが多く、どうやって融合させるかだいぶもめたようです。 互いに無視or排斥するわけにもいきませんしね。

この復刻と融合によって生まれた文化が、17世紀の「ルネサンス」というわけです。

私自身は、ルネサンスが「復活」「再生」を意味するということは知っていましたが、何から何を復活させるのか、いまいちピンと来ていなかったので、ここは本当に目からウロコでした。

日本

このころの日本も見ておきます。

古事記』『日本書紀』を紐解き、古代から大和朝廷ができるまでの神話を振り返ります。 その後は日本の政治機構が中国を模倣して作られたこと、貴族のプライベート空間「内裏」から日本独自文化が芽生えたことを、文字や神仏習合の歴史を交えてざっと辿ります。 が、ここもそこまで目新しい話はなかったので詳細は割愛。

室町時代になって「座」が生まれました。 現代のサークル活動のようなものと思えばわかりやすいですが、要は同じ趣味を持つ人々が集まって「一座建立」し、切磋琢磨し合っていたというわけです。

座のスゴイところは、集団で文化に取り組んだこと。 それまでの文化は、個人(僧侶など)によるものがほとんどでした。 ところが座では、同じ趣味や嗜好をもつ数寄者が集まることで作品とスキルがどんどん洗練されていきました。 茶道や華道、能、「寂び」といった現代人が思う「日本文化」は、ほとんどこの頃に生まれたものです。 平安から続くものは実はあまり多くないそうです。

ここで著者が注目しているのは、連歌。 1人が詠んだ和歌を、別の人が繋いでいくアレです。 この連歌が、今のインターネット内の文化につながるものである、と著者は指摘しています。

本書では特に例は挙げられていませんが、1つ考えてみます。 たとえばニコニコ動画。 作曲家が歌を作り、歌手が歌い、初音ミクも生まれ、ダンサーが踊り、皆が寄ってたかって、「集団として」スキルレベルと作品の質を高めていきました。 インターネット越しの互いに見知らぬ匿名集団ではありますが、プロアマ問わず「数寄者」が集まることで、座と同様に文化が洗練されていったわけです。 特に00年代の盛り上がりは凄かった。。

おそらく室町時代のそれぞれの座にも、(インターネットほど急激ではないにしろ)同じような盛り上がりがあったのでしょう。 そして、彼らは最終的に「引き算の美学」の極致「侘び」にたどり着きます。

ここは、私の個人的な妄想なのですが、今はまだ黎明期が終わったばかりのインターネット文化(と私はとらえてます)が「侘び」の極致にたどり着くことがあるのか? もし辿り着くことがあるなら、それは日本人の手によるものであることを期待したいところですが、そのときどんな文化が生まれて、一体どんな作品が生み出されるのか? これが気になっています。 少なくともまだ「足し算」が終わっていませんが、これを生きている間に見てみたいと思っています。

日本と世界のかかわり

バロックや侘びを通して、2つの世界を行き来する文化について、解説しています。 世阿弥シェイクスピア、などの日本と世界の文化的な繋がりです。

しかし、ここでは詳細は省略します。 なぜなら、残念ながら、本講義では18世紀頃までしか扱っていないからです。 読書前の期待としては、現代日本に直接的に「役に立つ」話があるのかなと思っていましたが、ありませんでしたので、そこが少し残念でもあります。

しかし、これまでに見てきたようなことを自分自身で調べて現代まで繋げていくことが必要、と著者はまとめます。 たしかに、本当に得るものの多い本でした。

一神教多神教キリスト教ユダヤ教イスラム教と仏教。 善と悪。 それぞれの国の人々の行動原理に、その地域の神話がどれだけ影響を与えているか? その神話はどう生まれて、ほかの神話とどう同じでどう違うか。

あくまでも人間文化の講義なので、政治的な話は一切ありませんが、知っておくと世界の見方が変わるのは間違いありません。

私の所感

これは講義では触れられていませんが、17世紀の科学革命は「宗教の時代」の限界から起こったことと私は理解しています。 神話から宗教への移行があったように、宗教による物語と現実の現象の差異が大きくなりすぎたことで科学創発されるわけです。

創発を行うためには人類に何が必要なのでしょうか? 私は、そのスキルは観察眼と思考力ではないかと思っています。

どういうことかというと、論理と現象の「差異」に気づくためには、目の前の物事をありのまま見つめる観察力と、前提条件となる理屈をおかしいと感じる思考力が必要になります。 「ありのまま見る」って、実はものすごく難しいんです。 一言で言えば「思い込みをなくす」ということ。 「見」て何が起きているか理解するためには、自然(人間含む)に対する一定以上の知識が必要です。 子供はありのまま見ることはできますが、理解が及ばない。

しかし、じゃあ知識を得てから「見」ようとすると、今度はその知識が邪魔をする。 知識が「思い込み」になってしまうんですね。 これを打ち砕くには、ある程度の抽象的な思考力が必要になります。

これを様々な現象や理論において発見者・発明者・リーダー・預言者らがまず(個人レベルで)行います。 次にその周囲が(集団レベルで)その内容と価値を理解する。 科学技術に限らず、これを繰り返すことで、人類全体が進化していく。

創発について、本書を読んで私こんなふうに理解してみました。 まぁこういう考え方もできるという1つの例くらいに思ってもらえれば。

実際、人類が宗教に対して矛盾をもち科学が理解されるようになるまでには、2,000年以上かかりました。 本当は、文字や貨幣や農業や芸術などなど、もっと小さな進化が数え切れないほどあり、時には退化もしながら、積み重ねられて現在に辿り着いているわけです。 そのスピードを早いと思うか遅いと思うかはシチュエーションによるでしょうが、ホモ・サピエンスにとっては、それだけの時間が必要だったということです。

こうしたスキルを身に着けて進化したサピエンスは、この間に何がどう変わったのか? 動物的な本能を司る小脳は変わらずに、人が人たる大脳新皮質の性能が上がっただけなのか? 我々が科学の「次」に進むためには、必要なスキルは何で、その獲得にはどのくらいの時間が必要なのか? といったことも気になってきました。

なぜこんなことを書いてるかというと、本書を読んでこうしたことを考えてみて、なぜ私が人類史(と芸術とテクノロジー)に興味があるのか、ようやく自分なりにすこし分かったからです。 とても説明しきれた気がしないのですが、2017年現在の思考として書いておきたかったのです。

今回は文化と社会から見ていきましたが、今後もいろいろな視点からこの謎を考えていきたいところです。

長くなりましたが、ここらで今年の更新を終わりたいと思います。 駄文にお付き合いありがとうございます。来年も懲りずにどうぞよろしく。 皆様よいお年を。