木牛流馬は動かない

テクノロジーや気付きによる日常生活のアップデートに焦点をあて、個人と世界が変わる瞬間に何が起きるのかを見極めるブログ。テーマは人類史、芸術文化、便利ツール、育児記録、書評など。

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書評『ニュータイプの時代』

「現代」を的確に映し出した名著です。 以前からタイトルは知っていましたが、ちょうどいいタイミングで友人からオススメされたので、読みました。 少しでも気になっている人は、遅くても今年中に読むことをオススメします。

この本について

ニュータイプの時代

ニュータイプの時代

ニュータイプの時代』 山口周

感じたこと

構想力3

であれば本当に考えなければいけないのは、「未来はどうなるのか?」という問題ではなく、「未来をどうしたいのか?」という問題であるべきでしょう。

これ、「未来予測」というワードを見聞きしたときに私がいつも感じている違和感です。

もちろん「未来がどうなるのか?」を考えてはいけないわけではなく、むしろ継続的に考えていくべき超重要なテーマです。(自分がどこまで寄与するかは別の問題)

しかし、「どうなるか?」がわかった(ある程度予測がついた)上で、「じゃあどうしたいか?」、つまり人の意志を加えることに価値があるというのが著者の主張。

これは「予測」通りの未来を拒否することが前提にある、という理解でいいのかな?

意味のパワー4

現在の年長者がまだ若者だった1980年代以前の時代は「モノ」が希少で「意味」が充足していた時代でした。一方で、現代という時代は先述した通り「モノ」が過剰で「意味」が希少になっています。

問題とは、理想と現実が異なる状態を指します。

上記の通り、現代は問題設定が希少になっています。 つまり、「現実に満足している人が多い」または「(他人に共感される)理想を描ける人が少ない」、のどちらかの状態です。

現代に生きる者の感覚から言って、今の時代は後者がふさわしいことは大多数が同意することかと思います。その前提で話を進めます。

さて、 「モノが希少で意味が充足している時代」から「モノが過剰で意味が希少になっている」時代への変化は、ある意味で革命と呼べます。 権力の交代(権力を持っている人の立場の逆転)であるからです。

革命の定義については、過去記事を参照。 euphoniumize-45th.hatenablog.com

では、これは何の革命でしょうか? 言い換えると、そのきっかけは何? この革命において、勝者は「意味」を提供する(できる)人。それはどんな人でしょうか?

論理と直感8

論理と直感をバランスよく使いこなすためには、どのような局面において、直感と論理のどちらを意思決定に用いるべきかという意思決定、つまり「メタ意思決定」が重要になります。これを間違えてしまうと、論理思考で有効な答えが出せる局面で直感を用いてトンチンカンな回答を出力してしまう一方で、創造的な解が求められる局面で論理を用いて陳腐な回答を出力してしまう、ということになります。

たとえば、ある仕事に必要な作業の見積もりをする場合を考えます。

まず、過去の実績などから根拠のある数字を積み上げて、作業の単価を決めて、合計を計算するわけです。いうまでもなく、ここは論理を使う場面ですね。ここで雰囲気で数字を決めると、あとでめちゃくちゃ怒られるやつです。

その後、その見積もり(合計金額)が妥当かどうか、判断する作業を行います。 ここは、タテマエとしては過去の経験からの判断になることが多いかと思いますが、実は直感がものをいう場面です。 その判断する人は、見積もり作成者の上司だったりその道のエキスパートだったりしますが、なぜその人たちが判断を任されているかというと、直感が「当たる」精度が高いからです。

会社などの組織がうまくまわるのは、「論理と直感をバランスよく使いこなす」ような体制ができている(そのように人事を行った)からです。 言うまでもなく、体制に不備があると仕事がまわりません。

著者が本書で主張している「メタ意思決定」とは、このような役割分担を個人でもちゃんとやりましょう。場面ごとに、どちらの役割として考えるべきところか、まずはそこから考えましょう、ということです。 混ぜるな危険。

このリストを一覧すれば結論は明白です。「過剰なもの」がことごとく「論理と理性」によって生み出されているのに対して、「希少なもの」はことごとく「直感と感性」によって生み出されています。つまり、現在の世界において「希少なもの」を生み出そうとするのであれば、「直感と感性」を駆動せざるを得ない、ということです。

上の見積もりの例は、数字を積み上げるだけなら実は全く直感的な作業でなく、過去データさえあれば、むしろAIにとって得意な分野と言えます。 じゃあそこで人間は何をやるのか、考えましょうね、というメッセージでもあります。

野生の思考9

私達は一般にエラーというものをネガティブなものとして排除し、できるだけ生産性を高めようとしています。しかし、自然淘汰のメカニズムには「エラー」が必須の要素として組み込まれています。なんらかのポジティブなエラーが偶然に発生することによって、システムのパフォーマンスが向上するからです。

先に(論理と)直感の話をした直後の章で、エラーの話を持ち出す著者のセンスが鋭すぎます。

一見関係なさそうな両者ですが、どちらも「理屈で辿り着かない結論を導く」という点では同じ領域の話である、という視点です。

違いは、その生成が意図的か偶発的かということ。

ここで著者は、エラーをコントロールして意図的に発生させることを述べています。

たとえば、組織に新人が入るのは、あえてエラーを起こさせて、チームとしての力を向上させるため。 ここでいうエラーは、単純な間違いという意味ではなく、既存の思考回路では考えつかない別角度からの意見を求めることが含まれます。 新人は質問することが仕事、と言われる所以ですね。

こうしたことをコントロールするためには、前述の「メタ意思決定」が重要になるわけです。

美意識10

では、何を判断の拠り所にするのか? もうおわかりでしょう。システムの変化があまりに早く、明文化されたルールの整備がシステムの変化に追いつかない世界においては、自然法的な考え方が重要になってきます。つまり、内在化された価値観や美意識に従って「わがまま」に判断することが必要だ、ということになります。そんな曖昧なものに頼るしかないのか、と感じられた方もいるかもしれません。しかし筆者に言わせれば、それはむしろ逆です。システムに引きずられる形で、いつ後出しジャンケン的に改定されるかわからない明文化されたルールよりも、自分の内側に確固として持っている「真・善・美」を判断する方が、よほど基準として間違いがありません。実際に、好業績を継続的に上げている企業には、社是としてこのような「自分たちの価値観」を掲げている企業が、少なくありません。

「わがまま」が適切なものであるためには、価値観や美意識に裏付けされる必要があります。 狭い世界での価値観を基準にすると、「真・善・美」は「わがまま」に見えてしまうかもしれないですね。

個人的には瞑想がオススメ。自分の内側を確固たるものにするための一つの方法ですね。

気づき20

世界がどんどん曖昧で複雑で予測不可能になることで、私たちの「わかる」という感覚もまた揺さぶられることになります。

「わかる」については別途考察したい。

私たちが日常的に用いている「言語」はとしても目の粗いコミュニケーションツールです。したがって、私たちは、自分の知っていることを100%言語化して他者に伝えることが原理的にできません。つまり「言葉」によるコミュニケーションでは、常に「大事な何か」がダラダラとこぼれ落ちている可能性がある、ということです。

同意。 言語化は非常に重要ですが、どれだけ完璧に言語化しても伝えたいことを伝えきれるものではない、とも思います。 これも別途考察したい。

資本主義の脱構築24

さて先述したとおり、この世界劇場で演じられている劇にはいろんな問題があります。この世界が健全で理想的な状況にあると思っている人は、世界に一人もいないでしょう。つまり世界劇場ということで言えば、この劇の脚本は全然ダメな脚本だということです。したがって、この世界劇場の脚本は書き換えられなければならないわけですが、ここで浮上してくるのが「誰がその脚本を書き換えるのか」という論点です。というのも脚本に口出しできる人は、そう多くないからです。   矛盾は一般にネガティブなものとして忌避されるが、システムのカタストロフィを避けるためにはとても重要な概念だと思っています。[スコット・フィッツジェラルド]は一流の作家の条件として「相反する2つの思想を自分の内側に持ったまま、精神的に破綻せずにへっちゃらでいられること」と述べたそうだが、これを端的に言えば「いい加減な人」ということになり、つまりは平気で矛盾したことを言ったりやったりできる人、ということになる。ユヴァル・ノア・ハラリも、世界的なベストセラーとなった『サピエンス全史』において、「矛盾する信念や価値観」こそが分化の形成にとって必須のものだったと指摘している。

euphoniumize-45th.hatenablog.com

「矛盾する信念や価値観」が文化の形成にとって必須。これは『サピエンス全史』で見逃していた観点かも。

おわりに

このように考えていくと、私たちが経済学や歴史の教科書で学んだ「生産性の向上」というのは、一体何だったのか?と考えこまざるを得ません。膨大な人的資源を投入し、好物や石油などの地球資源を蕩尽するようにして生み出した「生産物」の多くについて、

これは言い過ぎでは?

考えたこと

オールドタイプとニュータイプという分類

本書は、人間の行動様式をオールドタイプとニュータイプの二者に分けて解説しており、現代とこれからの時代にどのように振る舞うことが求められるかを解説したものです。 しかし、これが私には若干乱暴な分類かと思えます。

論理を分かりやすくするため二分化していることは理解しています。 しかし、そのような安易な二分化こそ、著者の述べる「既存のシステムをまるごと置き換える」オールドタイプの思考そのものです。 もちろん本書のなかで、オールドタイプをニュータイプにただ置き換えればよいという趣旨の記載はありませんし、むしろ読者がそのような誤解を持つことのないように何度も丁寧に注意がなされています。 じゃあ、もし自分ならどう書くか、と考えたときに、やはりわかりやすく二分化するのだろうな、とも。 これはジレンマであり、解消するには継続的に主張し続けて浸透させていくしかないのかな、と思います。

では、なぜ著者がこのような分類で現代を説明したかと考えると、つまりこれは「思考を止めるな!」というメッセージではないかと。

これは仏教の教えにも繋がるところです。 厳密には現代仏教と言うよりブッダの原始的な思考に近いかもしれませんが、思考のレイヤーを自在に上下移動し、あるときは論理を、別のあるときは直感を駆使することを説明することで、現世を生き抜く術を示しているわけです。

この本を読めば、「いま」がわかるのではなく、「いま」何をどう考えるべきか、が見える。 その後のことは、自分で考えるところです。

本音と建前

本書で気になった点がもう1つあります。 「本音と建前」について触れていない点です。

オールドタイプの思考法が現代やこれからの時代に適していないことは説明されています。 しかし、そのような考え方が本音なのか建前なのか、については触れていません。

そもそもニュータイプは建前を使わず本音で語る、という趣旨の記載はありますね。

そこで疑問。

24時間365日すべてニュータイプであれる人間というのは存在しえるのでしょうか?

人間はいくつも「環境」を持っています。「自分」と言い換えてもいいです。 たとえば、家庭内の自分、仕事中の自分、趣味の活動での自分、学生時代の旧友と話すときの自分、馴染みの店でだけ出てくる自分。 すべての場で同じ振る舞いをしていれば、本音や建前など気にする必要なないかもしれません。

しかし、それぞれの環境によってふさわしい振る舞いもあるのも事実。 その中で、ニュータイプであるかオールドタイプであるかは変わりうるものであるし、単純に二分化する(できる)ものでもありません。

すると、1人の人間の中に、ニュータイプとオールドタイプが共存し、それぞれの比率が環境によって変わるものなのではないか、というのが私の「自然な」考えになります。

すべてをニュータイプであろうとする姿勢こそ、本書の指摘するオールドタイプの思考に陥っています。 未来を指向することを否定するつもりはありませんが、未来だけを見て現在を見ていないことは、これもまたオールドタイプです。

もし本書を読みながら「ふふふ、ボクはニュータイプだな」とドヤ顔した時点で、オールドタイプに片足を突っ込んでいるわけです。 況や「しかし!私もニュータイプの筈だ!」をや。あな恐ろしや。

禅問答のような、頭がこんがらがってきますが、このような「メタ意思決定」を継続的に行う必要があるということこそが、本書の発する最も重要なメッセージです。 メタ意思決定をし続け、これに慣れておくことで、予測不可能な「エラー」が起きたときにも対応できる。そのように備えておく。 これがニュータイプの能力ということになります。

まとめ

本書は現代に対する分析としては良書です。 ただし、歴史や未来に対する考察は、若干偏りのある主張かなと感じます。

それでも私にとっては、自分の感性を信じていくことを後押ししてくれる本でもありました。

世界の進歩の多くが、問題間の素人によるアイデアによってなされています。

凡人たる我々が世界に向けて発信する背中を押してくれる名言。 このブログも自分の感性に従って、好きに書いていこうと思います(内容も時期も)。

最後に。

「人類がスペースコロニーに移住するとしたら、日本の文化遺産の中から、何を持っていきたいと思いますか?」

私は、とっさに「畳」が思いつきました。 皆さんは何を持っていきますか?

ニュー・タイプ (交響組曲「Zガンダム」)

ニュー・タイプ (交響組曲「Zガンダム」)