木牛流馬は動かない

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映画評『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』

ご無沙汰しております。 個人の別プロジェクトが忙しく、完全に放置しています。
いや、本は読んでいるし、Scrapboxにちょこちょこメモ書きしているんですよ。

https://scrapbox.io/simplegifts-books

そんな言い訳はさておき。 今回は話題の映画『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の感想です。

TVシリーズが大好きな作品だったので劇場版もなんとしても観たいと思い、どうにか時間をひねり出し映画館に駆けつけました。

鑑賞直後は感動のあまり言葉もなかったのですが、ふと出てきた感想は、「国宝」。少なくとも重文。
鑑賞中の約2時間はピクリとも動けず、鑑賞後もずっと頭の中で本作のシーンがぐるぐる駆け巡っています。

すべてのエピソードを1つ1つじっくり語り尽くしたいところですが、書評ブログなのにたまに更新したと思ったら映画のこと書くような私がそれをやっても無粋です。 鑑賞後一週間経ち、すこしアタマが冷えてきたところで、最低限の感想だけ書き出してブログにまとめておきたいと思います。

ネタバレありです、ご注意ください。

あらすじ

感情を持たない一人の少女がいた。
彼女の名は、ヴァイオレット・エヴァーガーデン
戦火の中で、大切な人から告げられた言葉の意味を探している。

戦争が終わり、彼女が出会った仕事は誰かの想いを言葉にして届けること。

――戦争で生き延びた、たった一人の兄弟への手紙
――都会で働き始めた娘から故郷の両親への手紙
――飾らないありのままの恋心をつづった手紙
――去りゆく者から残される者への最期の手紙

手紙に込められたいくつもの想いは、ヴァイオレットの心に愛を刻んでいく。
これは、感情を持たない一人の少女が愛を知るまでの物語。

Introduction | 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式サイト

気になる方はこちらも。 tv.violet-evergarden.jp

これはTVシリーズの紹介文です。
今回は、その続編として制作された完結編の劇場版を取り上げます。

王道

シナリオ、作画、映像、音楽、演技、演出、すべて当代最高峰の映画です。京都アニメーションの本気。公開できて本当に良かったですね。

キャラクターや世界観こそ独特ですが、描かれるテーマは普遍的な人間ドラマ。
大切な人に思いを伝える。
シリーズ通して、この一点で成り立っています。王道。

王道を真っ当に描くって、相当高いスキルがないとできないんです。センスだけで乗り切れるものでなし。スキルがあっても、キャラクターの心情に正面から向き合わないと作れません。

象徴的なのが、手紙を代筆する職業「自動手記人形(ドール)」に就いている主人公が手掛けた数々の手紙。
本シリーズは手紙が重要なアイテムで、映画冒頭の「50通」もさることながら(これがまた良い話なんだ…)、たとえ脇役でもないモブキャラの手紙であっても、その内容をしっかり作り込んでいます。

海の感謝祭の主文なんてものも登場しますが、映画を作る上では必ずしも書かなくてもよさそうなものなのに、しっかりと世界観を踏襲した上でそこに住む人々の目線で本当に海への感謝を真っ当に書いています。
しかも、観客がその内容を知ることができるタイミングが考えられており、その感謝祭シーンではなく(そこでは無音)、物語の重要な伏線のために後で使うという演出。憎たらしいことといったら。

素直になれないキャラクターが多い中、主人公だけが素直の塊のような性格。
思ったことをそのまま話すので空気が読めないことも多いですが、そこに悪意がないことがわかると、次第に人気の「ドール」になります。
手紙の代筆の依頼が殺到し、3ヶ月後まで予約でいっぱい。

みんな、伝えたい思いはあるけれども、自分ではうまく伝えられないということですね。特に本作のように識字率が低い世界観ではなおさら。
むしろ現代、誰でもインターネットで発信ができるようになった今こそ、代筆業なんて流行ってもよさそうな気もします。

私は作家ではないのであくまで推測ですが、手紙って物語の中に登場させるのはものすごく難しいんじゃないかと思います。
キャラクター自身に強い思いがないと書くシーンまでたどり着かない。書き手と読み手に必ず時間差が生じる。読む前と後でキャラクターが大きく思考や行動を変える。
物語としては王道かつシンプルですが、だからこそ、キャラクター(書き手と読み手の両方)の心情に真正面から向き合う必要がある。
これを逃げずにちゃんと描いたというだけでも、本作は大きな価値のある作品です。

音楽

音楽好きとしてはサウンドトラックにも触れておかなければなりません。

本作、音楽が本当に素晴らしいです。TVシリーズサウンドトラック盤は即購入。リモートワークのBGMとしてヘビロテです。

Wikipediaのぞいてみたら、作曲者Evan Call氏は元Elements Gardenだったんですね。
超絶大好きな音楽制作集団です。道理で刺さるわけだ。

劇場版では、TVアニメ版とは曲を変えてあります。わざわざ劇場版のために新しくサウンドトラックを制作したようです。
何曲かは、TV版と同じ曲が使われていますが、劇場版では転調していたりアレンジされています。
たとえば「ド」で始まるメロディが、形は変えずに「ソ」で始まるメロディにキーチェンジされていたり。

これはカラオケ的にただキーをずらせばいいと思われがちですが、実はそんな単純なものじゃないのですよ。
なぜなら、「ド」の音が聞く人に与える印象と「ソ」のもつそれが異なるからです。生楽器は種類によってそれぞれ得意な音・苦手な音があるので、その特徴をうまく使って作られた音楽はよく「響き」ます。

すでに完成されたサウンドトラックがあるのにあえてそこを変えるということは、その音を流すことで観客にどんな印象を与えたいかという観点で、劇場版向けに設計し直したということです。

しかも、エンドロールによると、ドイツとチェコのオーケストラ演奏で録音したもよう。気合い(≒金)入ってますね。

サウンドトラック発売しないかなー
と思っていたら、するようです。高っ!
Amazon | 【店舗限定特典あり・初回生産分】『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』オリジナル・サウンドトラック(3CD) + A4クリアファイル 付き | Evan Call | アニメ | 音楽

音響

よく言われることですが、映画館に行くことの醍醐味は、映像よりもむしろ音響。

自宅では再生できないレベルの大音量で聞けるのは当然として、今回の作品で特に味わうべきは、無音。
冒頭の時計の音は、周りが無音だからこそ効果音として効いてきます。
ピアノ単音の余韻なんかゾクゾクきました。

そこらの映画だと他の観客の物音(お菓子の袋とか)なんて聞こえたりするんですが、本作はほとんど聞こえませんでした。
みんな作品に見入って微動だにできなかったのか、単にソーシャルディスタンスが音響的に良い方向に影響しただけなのか※、それはわかりません。

※ホールや映画館は観客がそこそこ満席であることを前提とした音響設計により建てられているので、(ソーシャルディスタンス等で)観客数が少ない場合、制作者の想定よりコンマ数秒、残響が長く聴こえます。これも余韻に関係します。

映画が伝えたいこと

さて、上記のように(全然伝えきれていないのですが)、とにかくあらゆる面で作品の質が超絶に高い。作画や脚本なども取り上げたいですが、キリがないので。

感想記事としては、そのような絶賛で終わってもよかったのですが、やはり気になるのは、わざわざそれだけの作品を作り上げてまで伝えたかったことは何なのか?ということ。これだけは書いておきたい。

となると、「キーワード」はやはり、最初から最後まで常に本作の中心にあり続けた「愛してる」だと思うわけです。

以降、しっかりネタバレありです。

「愛してる」について

この物語は、愛を知らない少女が愛を見つけ出す生き様を描いたものです。

ヴァイオレットは、幼い頃に戦場に駆り出され「武器」として生きてきたため、愛を知りません。彼女の上官であり庇護者でもあるギルベルト少佐に最後に残された言葉、「愛してる」の意味が理解できません。

戦争が終わり、ヴァイオレットは「ドール」として数多くのクライアントの手紙を代筆します。
中には、恋人へ向けた手紙もあれば、両親、子供、兄弟、古い友人などへの手紙もありました。演劇の脚本や海への感謝祭の主文も手掛けました。
手紙に書く内容に「愛してる」が含まれることもあり、そこでヴァイオレットは多くの人の大切な思いに触れると同時に、愛と、自身の過去の罪と後悔を少しずつ知っていくのです。
そして、その度に戦争で行方不明となったギルベルト少佐への想いを募らせる。その思いに押しつぶされそうになりながら。

私が唯一不満だったのは(というほどでもなく「気になる」程度ですが)、本作クライマックスでの「愛」が恋愛に引っ張られてしまったように感じられたこと。

物語の過程で、ヴァイオレットはいろいろな形の愛があることを知り、同時に過去の後悔と贖罪を認識し、ようやく「愛が少しだけ分かる」ようになります。それぞれの物語も密度が濃く、素晴らしいエピソードが多かった。
しかし、そのような積み重ねがあった上でのシリーズ完結の結末として、恋愛に絞ったように受け取られかねないクライマックスシーンは、その積み重ねから若干浮いてしまったようにも思えたのです。

誤解のないように書いておくと、私は本作にとってあれ以上のクライマックスはないと思っています(感動のあまり泣きました)。
また、クライマックスシーンがただの恋愛だけの「愛してる」だけを描いたものではないことも感じとりましたし、ヴァイオレットが愛を知るきっかけが愛する人からの「愛してる」だったので、これがまっとうな帰結だとも理解しています。

私の印象では、ヴァイオレットとギルベルト少佐の感情は、恋愛というよりは「恋愛から「恋」を除いたもの」。ヴァイオレットにとってギルベルト少佐は上官ですが庇護者であり家族でもあります。ギルベルト少佐にとってもヴァイオレットは父や兄との確執から逃れ安らぎを得られる存在であったはずで(そこまで意識していなくても)、互いを心配しあう戦友でもあります。本人たちが自覚していなかったとしても、愛はありました。
それがいつから始まったかといえば、私はギルベルト少佐がヴァイオレットにその名前をつけたときではないかと思ってます。
ただ、彼らは「恋人」ではなかったはず(それにかなり近い関係性であったことは間違いないです)。むしろ彼らはこれから恋をするはず。

こうした関係性を、様々なエピソードで直接的・間接的に積み重ねてきたこれらすべてを包括した感情を、ただ「愛」と呼んでしまっていいのか、少なくとも「恋愛」と呼ぶには違和感があるのですが、そこが私はうまく消化/昇華しきれていません。
上でまるで映画に不満があるかのような書き方をしてしまいましたが、私自身がこれを言語化する術を持たないことを歯がゆく思っているだけなのかもしれません。

もう少しだけ深掘りしてみる

あらためて、なぜ上記のように私が感じたのかを振り返ってみると、ラストシーンの演出があまりに感傷的すぎるためではないかと思い当たりました。
あるいは、その表現された感情の深さを私が受け止めきれなかっただけ、という気もします。

というか、直前のユリス君の電話シーン、あれは反則だろ…
その時点で、私のライフはとっくにゼロよ…

普段私は良作を鑑賞したとき、感動はしても涙を流すことはあまりないのですが、本作は落ちる涙がもう止まらず。
泣きすぎて、鑑賞後は頭の中が空っぽでした。感想は、鑑賞後6日経ってようやく少し書けるようになりました。
それまで鑑賞後の感情を安易に言葉にしてしまうのが勿体なかったのです。

少しだけ、思っていることをちゃんと伝えるように、少なくとも大切な人たちには伝わるようにしていけたら、というのが私の「素直」な感想です。

おわりに

思ったことを記録しておきたかったので書き連ねました。 さて、映画館で配布された数量限定品の(ドヤ)、本作の短編小説を読もうかな。

リンク

これから観ようとする方へ。事前にTVシリーズ全話を観ておくことを強くおすすめします。 tv.violet-evergarden.jp

劇場版の冒頭10分がYouTubeで後悔されました。 www.youtube.com

公式サイト tv.violet-evergarden.jp