木牛流馬は動かない

テクノロジーや気付きによる日常生活のアップデートに焦点をあて、個人と世界が変わる瞬間に何が起きるのかを見極めるブログ。テーマは人類史、芸術文化、便利ツール、育児記録、書評など。

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産業革命を振り返る / 書評『サピエンス全史』(6/8)

※このエントリーは、書評『サピエンス全史』シリーズの6回目です。前回はこちら

今回は産業革命。 本書『サピエンス全史』でいう、第17章、第18章の内容です。いよいよ佳境。 本当に幅広くてまとめるのに難儀したのですが、だいぶバッサリ絞りました。 一応フォローしておくと、これは私の言語能力の問題ですので、本書の内容や表現は(それほど)難しくありません。 これから読もうと思っている方はご安心を。

(ネタバレありです。未読の方はご注意を)

エネルギーと資源

産業革命以前は、人類の使うエネルギーはすべて、つまるところ植物、ひいては太陽に依存していました。 何をするにも、人間と動物の筋肉を使って仕事をしており、「エネルギーを変換する」ということが知られていませんでした。 たとえば、石油の存在は数千年前から知られていましたが、ずっとただの潤滑剤としてしか利用されていませんでした。

これが産業革命で変わります。

 じつは産業革命は、エネルギー変換における革命だった。この革命は、私たちが使えるエネルギーに限界がないことを、再三立証してきた。あるいは、もっと正確に言うならば、唯一の限界は私たちの無知によって定められることを立証してきた。私たちは数十年ごとに新しいエネルギー源を発見するので、私たちが使えるエネルギーの総量は増える一方なのだ。 - 『サピエンス全史』第17章

サピエンスは、蒸気機関を炭鉱から外の世界に引っ張り出すことによって、熱を動力に変え、石油と内燃機関(エンジン)で交通手段を発達させ、電気によって生活のほぼすべてをコントロールできるようになりました。

エネルギーの変換(のためのテクノロジーの発展)は大変な進歩ですが、この効果はそれだけではありません。 新たな原材料を発見し、より安価でより効率的なエネルギーの利用方法の発明にも結びつきました。 たとえば、プラスチック、アルミニウム、そして、シリコン。 これらははるか昔から存在はしていましたが、単独で存在することに(サピエンスにとって)意味はなく、使いこなすためのテクノロジーがあって初めて価値をもつ物質です。

また、著者は、巷で心配されるようにエネルギーが枯渇することはない、と断言します。 なぜなら、テクノロジーは、既存のエネルギーを効率化し、さらに次々と新しいエネルギー源を発見するから、だそうです。

ここはまぁ同意できなくもないんですが、本業がエンジニアの立場からすると、正直ふーんという感じ。 ちょっと楽観的すぎませんか?と。 わざわざ『サピエンス全史』の中で「エネルギーは無尽蔵!」と断言する根拠としては、ふわっとしすぎてるように思えます。 いや、それが技術者の仕事だし、著者は歴史学者なので、いいんですけどね。 私は別にエネルギー関連の業務ではありませんが、オシゴトがんばりますよ。はい。

第二次農業革命

産業革命は、安価で豊富なエネルギーと安価で豊富な原材料との、洗礼のない組み合わせを実現させた。その結果、人類の生産性は爆発的に向上した。それが真っ先に実感されたのが農業だった。普通、産業革命というと、煙を吐き出す煙突が立ち並ぶ都会の風景や、地の底で重労働に明け暮れる炭鉱労働者の苦境が頭に浮かんでくる。だが、産業革命は、何よりもまず、第二次農業革命だったのだ。 - 『サピエンス全史』第17章

著者は、本書『サピエンス全史』にて、人間とその家畜動物を対等に扱います。 その理由は本書では特に言及されていませんが、私は、地球上の生物としてサピエンスがたまたま進化の選択肢と可能性にマッチしただけということを著者は知っているから、だと考えます。 そして、人類史をマクロ視点とはいえ全てを見てきた著者が、このような視点をもって歴史を語ることに、本書の意味があるのではないか、と思うのです。 つまり、これからの社会も、このままでいいのか?という問題提起。

このような議論は、一見すれば「動物がかわいそう」のような感情論に走りやすく、一方、産業界はそんなことより目先の利益を求めがちです。 それぞれ当然の反応・行動ではありますが、これでは社会的な(人類全体としての)議論になりません。 歴史家として、即物的に事実を並べることと、問題提起をすること。 著者は本書でその立場を貫いており、実際、この問題について(おそらく敢えて)自分の意見を述べていません。

この点における著者のメッセージは、以下の1文に集約されるように思います。

大西洋奴隷貿易がアフリカ人に対する憎しみに端を発したわけではないのとちょうど同じで、今日の畜産業も悪意に動機づけられてはいない。これもまた、無関心が原動力なのだ。 -『サピエンス全史』第17章

これは育児をしていて日頃から思っていることなのですが、「関心がある」ってものすごいことだな、と。 逆に、無関心は本当に怖い。 子供が無関心な分にはいいですが、親が無関心になったら本当にヤバいです。 ただ、これを、見たことも無い地球の裏側にいる人にまで関心を寄せるのは、とても難しいことです。

おそらくここのマクロなコントロールは政治の役割と思いますが、これを個人の関心のレベルに落とし込むのは本当に難しい。 「阿呆ほど広い身内の概念」はどうやれば人類は手に入れられるんでしょうね。 『不老超寿』しかないかな。

冗談はともかく、本書をきっかけに社会的な議論が進むことを願います。

消費主義と資本主義

産業革命で向上した生産性は、経済にも影響を与えました。

これらの向上やオフィスは、野良仕事から解放された厖大な数の人手と頭脳を吸収するにつれ、空前の量の製品を世に送り出し始めた。
(中略)
供給が需要を追い越し始めた。そして、まったく新しい問題が生じた。いったい誰がこれほど多くのものを買うのか? - 『サピエンス全史』

消費主義と資本主義の誕生です。 著者は、これが大成功した人類史上初めての宗教だと風刺します。

投資せよ! 買え!

というのがこの新興宗教の戒律。物欲、物欲ゥ!

さて、資本主義が発展すると、企業が大きな力を持つようになります。 それまで太陽と植物の暦で(それぞれの地域ごとに)生活していた人類は、画一的な労働時間にしたがうようになり、社会制度もそれに合わせて変更されていきました。

サピエンスは、産業革命をきっかけに、時刻に支配されるようになりました。 前回、時刻の統一の話に触れましたが、人類が統一的な時間で過ごすために、公共交通機関と時刻の統一は欠かせないものとなり、同時に、自然界が人間社会に及ぼす影響はどんどん縮小されたていきました。

現在でもニュース番組の最初の項目は、(戦争勃発さえも凌ぐ重要性をもつ)時刻だ。 -『サピエンス全史』

このような社会では、より強力な(たとえばイノベーティブなテクノロジーをもつ)企業が、経済面に限らず大きな力をもちます。 資本主義においては、企業は有象無象の消費者に縛られています(表向きは)。 そのためマーケティングを統べる、いわゆるBtoCな大企業が力を持つようになります。 広告代理店やマスコミが大企業と広告によって結びつき、より購買意欲を誘うようなメディアが乱立します。 これを(国家が)うまく制御しないと、国家を上回る力をもった企業が社会を支配することになりかねません。 技術と資本をもった企業が、社会に影響を与えることができるなら、国を支配したのとある意味で同義だからです。 今の日本がまさにそうですね。

産業革命による影響は、最初は就労形態の変化でしたが、社会制度の変更をせざるを得ないほど大きいものでした。 その流れはIT革命により加速し、近年では国家の形態まで変わりつつあります。

 東西の壁が壊れた1990年以降、資本主義が社会主義を駆逐しただけでなく、その勢いで民主主義をオーバードライブ、というよりオーバーライトしてしまい、同時に国家の必要も薄れてきてしまった。 なにしろ、世界が単一市場の単一ルールになったからで、国家の必要性が希薄になってきたのだ。 - 『多動日記 (1)』高城剛

個人の時代へ

産業革命以降は、企業が人を束ねる組織となりました。 まず農業が機械化された。すると農家に仕事が(農民人口と比べて)激減します。 失業した農民は都市に上り、工業などに従事することになるのです。

産業革命は、人間社会に何十もの大激変をもたらした。産業界の時間への適応は、ほんの一例にすぎない。 その他の代表的な例には、都市化や小作農階級の消滅、工業プロレタリアートの出現、庶民の地位向上、民主化、若者文化、家父長制の崩壊などがある。 とはいえ以上のような大変動もみな、これまでに人類に降りかかったうちで最も重大な社会変革と比べると、影が薄くなる。 その社会変革とは、家族と地域コミュニティの崩壊、および、それに取って代わる国家と市場の台頭だ。 私たちの知りうるかぎり、人類は当初、すなわち一〇〇万年以上も前から、親密な小規模コミュニティで暮らしており、その成員はほとんどが血縁関係にあった。
認知革命と農業革命が起こっても、それは変わらなかった。 二つの革命は、家族とコミュニティを結びつけて部族や町、王国、帝国を生み出したが、家族やコミュニティは、あらゆる人間社会の基本構成要素であり続けた。 ところが、産業革命は、わずか二世紀余りの間に、この基本構成要素をばらばらに分解してのけた。 そして、伝統的に家族やコミュニティが果たしてきた役割の大部分は、国家と市場の手に移った。 -『サピエンス全史』第18章

この部分が、産業革命により起こった変化のうちで、最も重要なところかと私は思っています。 そのため、若干長いですが、あえて引用させてもらいました。

個人として生きるようになったサピエンスは、直接国家と市場にアクセスします。

大家族のような単位の集団であれば、その意思を決めることができれば、強い力となります。 その役割は企業が引き継ぎましたが、この場合、(わかる人なら)ある程度の動きの予想ができるわけです。

一方、個人として動く人が増えると、突発的な出来事が多く起こります。 エドワード・スノーデン氏のリーク事件SNSでの炎上など、政治や国家に打撃を与えるような、個人の活動が可能になったのです。 このような時代ではサイバーセキュリティ市場が活性化するのもうなずけるというもの。

https://japan.zdnet.com/article/35104488

これらはひとえにテクノロジーの発展によるものです。 LinuxFacebookなど個人エンジニアの開発したテクノロジーによる市場の逆転などが特徴的です。 今では誰もが持っているスマホが、10年前には誰も持っておらず(iPhone初代発売は2007年)、実質この世に存在すらしていなかったことも、あらためて思えば衝撃的です。 今後もこの流れは続き、その成果はこの後のRGB革命で目に見える社会の変化として現れてくるでしょう。

あるいは、都会の人々が人間関係に悩むことが多いのも、急激な個人の時代への移行のために対応しきれていないことが要因なのかもしれません。 なぜなら、小集団という虚構のワンクッションがなくなり、個人の虚構が直接、全世界の虚構につながるようになってしまったのです。 サピエンスが認知革命により手に入れた能力は「協力」だったはずですが、今後の世界では「協力」のカタチも変わってくるように思えます。 そして私は、それはより「虚構」から離れたもの、つまり「現実」に近いもののようにも感じます。

社会の安定は訪れるのか

したがって、近代社会の特徴を定義しようとするのは、カメレオンの色を定義しようとするに等しい。確信を持って語れる近代社会の唯一の特徴は、その絶え間ない変化だ。 (中略) これはとりわけ、第二次大戦終結後の七〇年についてよく当てはまる。 この間に人類は初めて、自らの手で完全に絶滅する可能性に直面し、実際に相当な数の戦争や大虐殺を経験した。 だがこの七〇年は、人類史上で最も、しかも格段に平和な時代でもあった。 これは瞠目に値する。 というのも、同じ時期に私たちは過去のあらゆる時代を上回る経済的、社会的、政治的変化も経ているからだ。 - 『サピエンス全史』

エントロピー拡大の法則、あるいは福岡伸一氏によれば、世界は静的であれ動的であれ平衡に向かうはずです。 しかし、人類の「経済的、社会的、政治的」な格差は、認知革命以降、広がる一方のように見えます。

戦争についても、帝国主義により世界がひとつにまとまるまでは、常に世界中のあらゆるところで同じような(比較的小規模の)戦争が起きていました。 しかし、文明の統一にともない、次第に紛争地域も限定されていき、近代以降は主に政治的に不安定な(先進国でない)地域に、(先進国によって意図的に)集約されています。 これは、地域が集約されただけでなく、頻度や規模、勝敗による影響度も集約の対象です。 逆にそれ以外の地域では、史上最も平和な時代となったのが、現代の地球というわけです。

これは、「経済的、社会的、政治的」な活動はすべて、物理的な現実世界ではなく、虚構に基づいているために引き起こされているための現象です。 人によって異なる虚構を持っていて、さらに、現実と虚構のバランスも人それぞれ違うためです。

現実世界は混沌とした平衡に向かいますが、虚構は理想を目指し続けます。

ところが(困ったことに)、我々の肉体は現実世界に生きています。 すると、人類は現実世界に生きながら、理想に向かうことになります。 そうすると、思い描いた理想を体現できる人とできない人が現れます。 もちろん二分するわけではなく、程度問題かと思いますが、これはつまり格差を拡大することにつながると思います。

言うまでもなく、人は集団で生活する生物です。

私は、「感情」は虚構ではなく現実だと考えていますが、虚構である「思考」と現実の「感情」の折り合いをつけられるような社会が訪れるなら、それはもしかすると理想的な社会と呼べるのかもしれません。 少なくとも資本主義と民主主義は、「虚構」側に偏りすぎているように思えてならないのです。

「感情」については、次回。 今回はここまで。


(↑本書とは何の関係もありませんが、BGM代わりにどうぞ)

参考文献

こちらの記事では、経済の時代が終わり、テクノロジーの時代がやってくることを解説しています。 前時代の主役が次の時代を支える、つまり、経済がテクノロジーを支える時代が訪れる(すでに訪れている)とのこと。

こちらは、テクノロジー方面からではなく『けものフレンズ』から見つけて読んだのですが、テクノロジーが発展する先には何がある(べきな)のか?という懸念を熱く語った記事です。 自動運転やAIといったテクノロジーの進化について、これらは人を排除するためのものではなく、その先に生きる人を想い、どういう社会(シーン)を実現したいかが重要、という指摘。