音楽がわかるって何? / 書評『音楽入門』(2/2)
前回は音楽の歴史を振り返りました。
euphoniumize-45th.hatenablog.com
今回は、音楽とは一体なんなのか? 人間との関係は?というところを考えていきます。

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音楽と絵画と文章の比較
まず芸術作品としての分類上、音楽と絵画と文章の3つについて、それぞれの共通点や違いを考えてみたいと思います。 単にそれぞれの特徴の確認が目的であり、優劣を付けたいわけではありません。
芸術作品はその芸術性やメッセージ性を人間に伝えることが役割ですので、 芸術作品を鑑賞すること、その最初の段階として、作品のもつ情報を人間に入力するところに注目してみます。
文章
文章(たとえば小説や童話や詩など)は、ストーリー構成が非常に大切な要素であることは言うまでもありません。 しかしながら、段落の流れや一文一文の描写なども重要であることも論をまたない事実。
これは、文章が極めてリニアな表現方法であることが、大きな要因を占めます。
ここでは、リニアとは時間的に1次元的な情報伝達であることを指す。
言い換えると、もし仮に一切改行をしないなら、文章は一直線で取り扱うことができるという意味です(改行も表現の1つであることは承知の上で)。
さらに言い換えると、文章は表現手法だけでなく、その伝達においても時間的にリニアです。
文章は、目で読んでも、(朗読などを)耳で聞いても伝達することができます。
つまり伝達媒体に依らない情報としての芸術。
「言葉」という情報伝達手段そのものが表現手法でもあるわけです。
絵画/イラスト
絵画やイラストは、視覚による鑑賞を求める芸術。 対象物は、構図とその構成要素となる人間や動物や静物やその他の何かを描いたもの。 作品のサイズの大小はあるものの、一目見れば、どんな絵なのか全体像がつかむことができます(その絵の内容を理解できるかどうかは別問題)。
つまり、絵は、面での情報伝達。2次元です。
また、絵画においては、色彩も構図とならぶ重要な要素。 ファン=エイク兄弟の絵具技術や、印象派の光の表現も、色彩に革命をもたらしました。 これも含めるとするなら、「構図(≒タテ+ヨコ)、色」の3次元とみなすことができます。
分かりやすいのが液晶ディスプレイなどでデジタル化した場合。すべてピクセルの位置と色の情報で表すことができます。
ドローン1374台で絵を書く
この他に絵画の表現要素が思いつかないので、とりあえずこれでいきます。
ちなみに彫刻について。
彫刻は我々と同じ3次元世界の立体物ですが、絵と同じように「見る」ことで情報伝達するという意味では、私は絵画と同じ表現手法に分類されると考えています
(もし「作品を触る」など別の鑑賞方法が提示されるなら、この限りではない)。
音楽
音楽は、入力が聴覚に限られます。
耳で聴くという行為は、時間的には(耳的には)リニアですが、その内容は高度に複雑な情報を「同時に」含んで伝達されます。 分かりやすくいえば、ボーカルもギターもベースもドラムも同時に鳴ってこそ、音楽として認識することができるということ。 とはいえ、複数音が同時に鳴ると話が混乱するので、単独音(たとえばアカペラ)で考えてみましょう。
歌詞もなく単独音ならこの曲がわかりやすい (伴奏は無視してください)
上に書きましたが、文章を読む時(朗読を聴く時)、同時に伝達する情報は1つだけです。 右耳と左耳で同時に別々の話が聞こえてきたら、聖徳太子ならともかく、これらを聞き分けるのは困難です。 何より、左右それぞれの文章情報は独立した1次元のものです。 (バイノーラル録音とか例外もあります)
しかし音楽は違う。 音楽の基本的な構成要素としては、前回上げたように3要素があります。
- リズム
- メロディ
- ハーモニー
ハーモニーは、大きくキーとスケールに分類されますが、まぁ今はまとめていいでしょう。
さらに、演奏楽器の特徴もあります。歌なら、声色。
他にもありそうですが、曲の持つ情報としては、これだけでも4次元。1
音楽は、これらが同時に鳴るわけで、同時に鳴らないと音楽として成立しないのです。
ちなみに、一般に普段よく耳にする曲は、同時に異なる楽器の音が鳴ります。
メロディとベースと伴奏を同時に演奏することで、音楽として認識できるようになる、といえばイメージしやすいでしょうか。2
これは前回見たように、9世紀以降のポリフォニーの発見とその後のモノフォニーへの変化による影響が大きいです。
それ以前の時代では独唱や斉唱という単一メロディの音楽が主流でした。そのへんの話は前回記事を参照。
高次元のものは理解できない
上で書いたように、文章を1次元、絵画を3次元的な表現手法と捉えると、3次元世界に生きる私達はそれを理解することができるわけです。 科学の立場では、自分のいる世界よりも低次元のものは理解できる、としており、一応現実はそれに基づいたものである前提です。
一方、音楽は4次元以上の情報を持ちます。 我々人間が存在している3次元世界よりも高い次元の世界であることになり、我々がこれを理解しようとするのは不可能ということになります。 しかも、やっかいなことに、目に見えない。
おそらく私の設定した音楽は4次元表現という仮説か、我々の住む世界が3次元空間下にあるという前提か、音楽を理解できるという認識のいずれか(あるいは全部)がなにか間違っているんだと思います。
物理的性質の話ではありません。表現あるいは情報としての次元の話です。念のため。

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(余談)鑑賞時間の話
音楽はこれまでに挙げた表現方法の中で唯一、鑑賞者の鑑賞時間を半強制的に束縛します。
読書は、読者が各人の好きなペースで読めばいい。
絵画は、脳の認識作業自体は一瞬であるから何度も鑑賞することになりますが、その回数と時間は鑑賞者が決めることができます。 もちろんこれは、美術館に何度も行くという意味ではなく、「2度見」が近い概念。
音楽は、表現者がその表現と伝達に要する時間を決めます。
表現者とは、演奏者のこともあるし、コンピューター音楽が当たり前となった今では作曲家、編曲家などが決めることもある。
鑑賞者は、現代でこそ録音された音楽を再生する速度を調節し、あるいは一部分をカットし、あるいは「10秒飛ばす」ボタンを押すことで、ある程度鑑賞時間をコントロールすることはできますが、音楽作品そのものの鑑賞所要時間は原則、表現者のそれに従うことになります。
まぁこれはそうですね。というだけ。
音楽を理解するとは?
音楽に限らず「物事を理解する」とはどういうことでしょうか?
り かい [1] 【理解】
( 名 ) スル
①物事のしくみや状況,また,その意味するところなどを論理によって判断しわかること。納得すること。のみこむこと。 「内容を正しく-する」 「 -力」
②相手の立場や気持ちをくみとること。 「 -ある態度」 「相互の-を深める」
③道理。わけ。また,道理を説いて聞かせること。 「義理ある兄貴の-でも/人情本・軒並娘八丈」 → 理会
④「 了解 」に同じ。 〔同音語の「理会」は物事の道理を悟ることであるが,それに対して「理解」は物事の意味・内容をわかることをいう〕
理解 - Weblio 辞書
私の定義では、物事の意味するところを言語化できたなら、少なくとも自分のこれまでの知識に近しい感覚のものがあることを思い出して論理的に結びつけることができたなら、これを「理解」と呼んでよいかと考えてます。
あくまで私は、です。 異論反論あるでしょうが、先にいきます。
音楽を理解するとはどういうことでしょうか?
私たちは、しばしば「この音楽はわからない」という言葉に接しますが、その場合ほとんどすべての人は、自分の中に、その音楽にぴったり合うような心象を描き得ないという意味のことを訴えるのです。この心象は、その人によって異なり、哲学、宗教、文学といったものから視覚的なもの、とにかく、音楽ならざる一切のものが含まれております。
もし、そうだとするばらば、その人達が音楽を理解し得たと考えた場合は、実は音楽の本来の鑑賞からは、極めて遠いところにいることになり、理解し得ないと感じた場合、逆説のようではありますが、初めて真の理解に達し得る立場に立っていることになるのです。
第2章:ロケーション333
非言語表現である音楽(たとえば初めて聴く曲)に触れたとき、ムリヤリにでも「言葉」で表現できれば「その音楽を理解できた」とみなすことに、著者は警鐘を鳴らしているわけです。 しかし難しいのが、「わからない」という状況は「理解に達し得る立場」なだけで、そこからどうやって理解に達するのか、は謎です。
文学などの言語表現を言語で理解することは、まぁそのままです。
絵画は、音楽と同じで「文章で」理解する必要はないわけです。 このことは、芸術作品に「意味」を求める姿勢が関係しています。
ですから、全てこのような音楽に触れてきた私たちは、純粋に音楽的な作品に接すると、その音楽が何を示しているかを知ろうと、努力するようになるのです。そうして、もし自分の満足行く答えが出ない場合には、その作品を理解し得ないと思い込むのです。
「鳥の鳴く声を聴いて誰もその意味を理解しようとしない。それで、聴いて楽しいではないか、それなのに何故、自分に向かって作品の説明を求めるのだろう」これは画家ピカソの言葉なのですが、むしろ音楽の場合にこそいわれていい言葉なのです。
ここにピカソが言っているように、絵画にあっても、鑑賞者は作者にその作品の意味をたずねるのです。 しかし、その意味を汲み取り得たと考え、また鑑賞し得たと考えている態度は、あるいは純粋絵画の立場からは誤解だったのかもしれません。また、誤解も成立しうる立場を古典の作家たちは喜んでとったのです。
このことはそのまま、音楽の世界に当てはまるように思われるのです。第2章:ロケーション391
作品についてを言語化すること、少なくともこれまでの記憶や経験との符合(一致)を発見することは、ある種の「安心」をもたらします。「解決」といってもよいかもしれません。 科学技術は、これを理論と実験をもって積み重ねることで成長を続け、現代では支配的な力を持つまでになりました。 音楽を科学的に分析する研究も進んでいて、それはそれで音楽自身の進化にも寄与しています。
では、未知の表現にふれたときに、「安心」さえすればいいのかというと、必ずしもそうではないだろうと。 安心を求めることそのものは生物の本能的な欲求なので止めようがありませんが、常に「言語による」安心である必要はないと考えることは、芸術においては十分意味のあることだと考えます。 「言葉では表せないもの」という「解決」があってもいいはずです。
芸術家たちは、意識/無意識的にかかわらずその感覚を持っていて作品を通して伝えていると思いますが、一般人が鑑賞する際に言語化しなければ「理解」できないのは、なんというかモヤります。 上で書いた高次元の話につながりますが、非言語表現を言語化すると次元が下がるわけで、削ぎ落とされる情報がどうしても発生してしまうのです3。
もっと言えば、音楽を聞いて感動した体験を言葉にするなんて無粋なことは本来したくないのです。 たとえ私が誰もが頷く名文が書ける作家であったとしても。 音楽を言葉にしたならばそれはもはや別物であり、できることなら音楽として感じたまま4にしておきたいのです。
もちろん、その感動やらをその音楽を聞いていない人に伝えたり後世に残すためには、今現在はどうしても言葉にしなければならないという人類の制約条件が立ちはだかることは承知しています。
私たちは音楽の印象を述べる場合、適当な表現法が見つからないので、他の連想的な言葉を借用します。これ以外に今のところ適当な方法がないのです。
第二章 : ロケーション368
しかし、個人が「感じる」ことに絞れば、音楽は音楽のまま残しておくことが最もふさわしいのです。 たとえばアインシュタインの脳を保存しておくのだって、似たようなコンセプトなわけでしょう?
すべての芸術は音楽の状態に憧れると言ったのはペイターさんで、私はそれにあまり共感しないけど、ただ、音楽には「わかる」が必要とされていなくて、それがいいのかなとは思う。受け手がはじめから理解しようとなんてしてなくて、ただ感覚的に受け止めようとしているだなんてほとんど奇跡だもの。
— 最果タヒ(Tahi Saihate) (@tt_ss) 2011年12月15日
物語
まぁ次元の話は半分冗談なんですが、音楽の理解に関して、私なりの結論を書いておきます。
キーワードは「物語性」。
著者の言う「誤った鑑賞態度」が音楽に求めるものは、音楽による「文章に変換可能な」物語、です。 シーンをイメージしやすい曲は、たしかに「理解」しやすいです。逆に、イメージしにくい曲は「理解」しにくい。
だから、現代人の感覚を最もよく表現しているはずの現代音楽が難解であり、まるで「映画のワンシーンのような」何百年も前のベートーヴェンが心を打つと言われ現代でも人気を博しているわけです。
音楽の本質は、音による物語であると私は考えます。 あくまでリズムやメロディやハーモニーの響きや動きを(音として)楽しむもの。
音楽からイメージされうる(たとえば小説や映画やマンガのワンシーンのような)物語は、音楽の理解という側面においては不要であると言えるのです。 もちろんそのようなイメージを楽しむことを否定する気はありません。私自身、映画やゲームのサウンドトラックとか大好きですし。
それでも純粋に音楽について考えるなら、きれいなメロディはきれいなメロディだから価値があるのであり、「ジブリっぽい」とか言ってしまうと(たとえポジティブな意味合いであったとしても)、本当に音楽について話しているかはわからないということになります。
その意味では、人間が音楽を理解することは、ひょっとしたら永劫できないのかもしれません。
音だけが表現しうる美の世界があるとして、そのような世界に人間が辿りつけるものだろうか?
やまむらはじめ『天にひびき』より
まとめ
今回の記事が詭弁か妄想の類であることは自覚しています。 音楽はこれだけ人間を魅了し続けえ、その謎はいつまで経っても尽きることがなく、だからこそ面白いですよね、と言いたかっただけです。 論理的なふりをしてまったく整合がとれなかったし。
とはいえ、文章化すれば理解が容易なのかといえば、私はそうも思っていなくて、むしろ文章を理解するほうが難しいのではないか、とすら思います。 私個人の感覚でいえば、言葉を言葉のまま理解できることはあまりなくて、自分の中で直感的に腑に落ちるまで「理解」できません。 たとえば実体験を思い出したり、イメージ図などに落とし込むことができると、「分かる」とみなしています。
要は、それぞれ別の表現による芸術なのであって、別物であることを意識できるなら、好きなように楽しめばよいということですね。
参考リンク
芸術作品の「タイトル」について、本書からちょろっと引用。
私が本書を読むきっかけとなった本。
ANAが社員に「西洋美術史」を学ばせる理由 - ダイヤモンド・オンライン
以前ある方が「いい絵には3つ特徴があって、ひとつは見た人がその絵の中に"行ってみたい"と思うこと、もう一つは絵の枠外まで"見てみたい"、最後にそこで"遊んでみたい"。この3つが揃うと、人は絵を買っていくんだよ」って仰ってたのを今でもたまに思い出す。誰かの心を揺り動かす絵が、描けたらいいな
— ソラコ|C-120デザフェス委託 (@solaco_) 2018年2月16日

- 作者: 伊福部昭
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