木牛流馬は動かない

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木牛流馬は動かない

題名のない美術館(に行きたい)

美術館いきますか?

行ったり行かなったり、行く理由も行かない理由も人さまざまだと思いますが、割と私がよく聞く行かない理由(の1つ)に「よく分からないから」というのがあります。

私は美術館は好きですが、絵の専門的な背景はまったく分かりません。一応、最低限の勉強はしようと思って、数年前に美術検定3級を取得しましたが、とてもとても分かった気はしません。 でも、絵を観ることは好きなので、素人目線で眺めるだけでいいと思っています。

いまは育児中なのでほとんど足を運べていないんですけどね。

さて、友人や知人と話していると、どうもその「よく分からない」がネックになって、そもそも美術館に行かない(行くことが選択肢に上がらない)ケースが少なからずあるように思います。

好みはそれぞれあるのですが、分からないかもしれないというだけで行かない、というのは勿体ない、と思うのです。

「ふつう」の美術館

よくある美術館の順路は、たいてい以下のようになっています。

  1. 入口 & 音声ガイド貸出
  2. 主催者の「ごあいさつ」。海外の美術作品の招聘なら所蔵美術館からのあいさつも。長い。
  3. 展示テーマの概略説明。1画家に絞った展示なら、略歴。
  4. 絵を見る。題名と解説も併記されることが多い。メイン作品はたいてい混む。
  5. 出口
  6. ミュージアムショップ

もちろん館や展示によって多少前後したり省略したりといったバラツキはあります。

ただ、ここで私がいいたいのは、この美術館の展示の順路、見る側のこと考えてますか?ということ。

たとえば、↑の順路2と3 。 まだ一枚も絵を見ていないのに、いきなり長文の解説とか書いてあっても、興ざめだわアタマに入らないわ。 と思いません? こっちは、まず絵だけを見たいんですよ!

というわけで

こんな美術館に行きたいな、と考えてみました。 それがこれ。

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順路を追っていくと、

  1. 入口 (▲IN)
  2. 展示のタイトル。主催者の「ごあいさつ」は無し。
  3. 1周目は絵だけ観られる。絵の題名も解説も無し。
  4. 一通り観た後に、主催者の「ごあいさつ」や全体的な解説
  5. 2周目は、もう一度同じ順路を辿る。ただし今回は各作品のタイトルと解説あり。1周目と同じ場所まで絵に近づくことも可能。
  6. 出口 (▼OUT)
  7. ミュージアムショップ

説明:順路3

言うまでもなくキモは、順路3と順路5。 この順路では、同じ絵を2回観るわけですが、大きな違いがあります。

それが、題名と解説の有無。

1回目は、ただ絵だけを見るのです。 なんも知識も入れず、ただ見たまま、感じるままに、ウロウロします。

説明:順路4

一通り回ったところで、主催者の「ごあいさつ」と全体的な解説が始まります。 一度げ見ているので、比較的アタマにも入りやすいのでは?と思います。

音声解説サービスをやるなら、ここで機材貸出です。

説明:順路5

2度目の鑑賞です。 今度は、タイトルと作品解説を読むことができます。

この順路で重要なのが、題名と作品を並べて配置しないこと。 作品に向かって、後ろに題名と解説を置くのです。

2回めが遠くからの鑑賞だけだと面白くないので、できれば再び近くで見られるように、空間的には通行可能になっているとウレシイ。

出口

上の図だと、出口付近に物理的な制約があります。 2周目に突入する人と出口に向かう人がぶつかりますね。 中央のデッドスペースに出口となるエレベーターでもある建物ならばいいのですが、もうすこし工夫は必要ですね。 これ以上考える気もありませんが。

この配置で何がおこるか

この配置にすることで、1周目に、先入観なく絵を見ることができます。 そして2周目で、美術史的背景や画家の生い立ちなどの情報を得て、違った視点で絵が楽しめるのです。

ここでの懸念としては、2回目に解説を読んで「答え合わせ」をしてしまうこと。 鑑賞時に抱いた個人個人の感動や印象こそが鑑賞にとって重要だと私は考えてるのですが、(2周目に)「専門家」の解説を読んでそれが(1周目の)自分の感想と異なるものだったときに、(1周目の)自分の感想が上書きされて消されてしまう恐れがあります。初心者は特に。

まぁこれは普通の展示でも起こりうることですが、それでもこの配置にすることで、「自分の感想」を持つ前に「専門家の解説」を入れてしまう事態に陥るより何倍もマシかと思います。

ヒントはうれしいですけど、どう感じるかはのだめのモノです

のだめカンタービレ

(余談)作品とタイトルの関係について

とまぁ、ここまでが言いたかっただけなので、あとは余談です。

さて、芸術作品にタイトルって必要だと思いますか?

画家の若い頃の作品なんかだと、ただのデッサンや習作にはタイトルがついていないことも多いのです。しかし、タイトルがないからといってその絵の芸術的価値が下がるのかといえば、そんなことはなく。逆にタイトルを付けることで価値が上がることはあるかもしれません。

あるいは、最新研究の結果、タイトル(通称)が変わることも多々あります。

真珠の耳飾りの少女》は《青いターバンの少女》もしくは《ターバンを巻いた少女》とも呼ばれてました。重要なはずの絵のタイトルがコロコロと変わっているのです。

また、上記サイトによれば、絵にタイトルを付けるのはルネサンス以降の様式とのこと。 作家本人ではない第3者がタイトルを付けることも多いようです。

私は、芸術作品にタイトルは必ずしも必用ではなく、なにかしらの表現的意図があるならつければよい、と思っています。ただ単に作品の説明のためならばタイトルは不要だし、ただし鑑賞や売買の利便性のために必用ならそれはやむなし(表現としての題名の範疇から外れる)、と考えてます。

ここで自分の意見を補強するための、偉人の名言の引用です。畑違いですが作曲家の御大、伊福部昭氏(代表作:ゴジラのテーマ)の名言を引用します。

自分の画筆ではとても表現できないことを、題名によって劇的要素を借用して、その作品の感動を高めようともくろんでいるのであり、紙芝居の絵と同様なのです。
(中略)
私たちは、このように音楽以外のものの助けによって、その音楽に意味あらしめようとするような作品を軽蔑しなければなりません。
- 伊福部昭『音楽入門』

この引用は、ただタイトルをつける行為を貶める意図ではなく、絵なり音楽なりはその表現だけをもって表現するべき、という主張です。表現力不足をタイトルで補うな、と。「軽蔑」は言い過ぎの気もしますが。

で、やっとここで最初の話に戻ります。

かりに作家にそのような意図がなかったとしても、たとえば絵画作品の展示の手法によってそのように誤解される事態が起こりうるのは問題なのでは?と思うわけです。 そして、もしそうなら(それを避けられるなら)避けるべきでは?ということ。

そのためにも、先入観なく鑑賞できるような場があってもいいのではないか?と思ったのです。

とはいえ、現代はコンテキストを提示して作品を蒐集するキュレーションの時代で、それはそれで一定の価値を生み出していることも事実。それ自体を否定する気はなくて、冒頭の「ごあいさつ」や各作品のタイトル札の掲示も重要な指標であることは間違いありません。それでも、あえてこれを書いたのは、あまりにテンプレ的な展示方法に陥っていやしませんか、と思ったからです。

まとめ

まとまらなくてすみません。 誰か、これで美術展やってくれませんかね??

参考

画題で読み解く日本の絵画

画題で読み解く日本の絵画

未読だけど読みたい。