木牛流馬は動かない

テクノロジーや気付きによる日常生活のアップデートに焦点をあて、個人と世界が変わる瞬間に何が起きるのかを見極めるブログ。テーマは人類史、芸術文化、便利ツール、育児記録、書評など。

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書評『悩みどころと逃げどころ』

悩みどころと逃げどころ (小学館新書)
ちきりん,梅原大吾

★★★★★

私が昨年読んだ本の中でベスト1の名著です。 レビューを書こう書こうと思っていたら年が明けてしまいました。あけましておめでとうございます。

Do you have an original style?

私は外資系(ドイツ)企業に入ってからわかったのですが、外国人は日本人と比べて、とにかくみんな話好き。
雑談はもちろん仕事上のディスカッションも途切れることがないくらいです。
言い過ぎました。
人によります。でも平均して、そういう人が多いのは事実です。

こんなことがありました。

弊社の事業部長(スペイン人)がお客さんにあるプレゼンをしたときです。プレゼンした内容についてお客さん(えらい人)と意見が全く合わずに、事業部長はボロクソに叩かれ、結果的に提案は却下。 私はそれを見てて「こんなに言われちゃ事業部長は立つ瀬ないし、しばらく後引くかもな~」と思っていたのですが、彼は会議の直後に「今日はいいディスカッションができてよかったよ」とさらりと言ってのけたのです。

あれだけ言われた本人は、提案が却下されたことに対しては全く気にしていないんです。単なる負け惜しみかもしれませんが、私にはこれは衝撃でした。

何が言いたいかというと、海外ではとにかく話すことに価値を置いているということ。 その時その時の環境や条件が異なるので、結論はころころ変わるのですが、それでも皆それが普通だと思っているので、どんどん発言する。 

なぜこのような考えをもつかといえば、欧米では、(特に仕事では)目的や戦略といった大枠を決めてから詳細な話に移るから。 しっかりした前提があるから、その場の議題が絞られているわけです。 ところが、日本では大枠が決まらないまま(というか最初に)細かい話から始めることが非常に多いです。暗黙の前提が多くあるので、これに気付けば気付くほど(特に若手は)発言にしくい。

(追記)さらに言えば、こういう↓ことも。

これは日本人が覚えておくべき違いかと思います。言語の問題じゃないですよ。

ちきりん 海外の会議でも日本人は発言が少ないんだけど、あれって英語力だけの問題じゃないと思うんです。日本の学校で発言して良いのは「この質問、わかる人?」って言われた時だけ。だから会議でも司会者から促されるのを待ってるうちに、意見を言いそびれてしまう。そういう受け身な姿勢を、学校の規律の中で刷り込まれてしまってる気がします。

私も勉強は比較的できるほうだったのですが、学校の授業のシステムにはずっと疑問を感じていました。

みんな一緒に雁首揃えて行動するのは、正直嫌いでしたし、今もそうです。かといって目立つのはもっと嫌いなので、一人で別行動するわけではありませんでしたが。変わるきっかけは、自由闊達な校風のちょっと特殊な高校に通うことができたことです。

この辺について、日本語のままで考えを変えたいなら、『洗脳論語』がおすすめです。

洗脳論語

洗脳論語

逃げるは恥だが役に立つ

ウメハラ 大事なのはまっすぐに戦うこと。それで勝てればもちろん素晴らしいけど、負けてもいいんです。戦い方において自分に恥じることがなければ、負けても堂々としてればいい。たとえ負けても、その戦いによって、自分がどれだけの者として生まれてきたのか、自分の立ち位置や、自分のやってきたことの価値がわかるんですから。

よく言われることですが、日本の学校教育では、与えられた問題に対して正解/不正解を答えることを求められます。自分で考えて、意見を持ち、何かを決めることをほとんどしない。言い換えると、「みんな」と同じ「正解」じゃないと(程度の差はありますが)異物扱いされる、ということ。

個人的には「道徳」の弊害だと思ってますが、これはつまり「自分に恥じることがない」よりも「周りに恥じることがない」が優先される教えというわけです。

単に仕事上の意見やらディスカッションだけなら、自分の意見に固執することの是非はシチュエーションによりますが、自分の人生の選択に関していえば、どちらが本人のためになるかは明白。

ちきりん そうやって自分の人生を見つけていくんだっていうコンセプトを、早めに理解したほうがいいんですよ。中学生にもなって、「選ぶ」のが早すぎるなんてあり得ない。
ウメハラ 親や教師は、まんべんなくやらせておいたほうが安心なんですよ。そのほうが、子供の可能性が広がってくように見えるから。

子育ての観点からいえば、「可能性」の話も忘れてはいけないですね。
ファイナンシャルアカデミー代表の泉正人さんが、こんな素晴らしいことを仰っています。

「可能性を広げることと教育と何か関係があるのですか?」 『ママと子どもとお金の話』

ここでいう教育とは、(子どもが)自分で好きなこと・興味あることを選び、深掘りして、自分の力で進んでいけるようになること。
どれだけ親が可能性を広げても、子どもが選べることの数は限度があります。 普通、同時に選ぶことができるのは1つかせいぜい2つでしょう。

そんなときに親がすべきは、可能性を狭めてあげること。 そして、成長の段階を追って、子どもが自発的に自分自身が好きなものを選べるような教育をしたいものです。

「何が君の幸せ? 何をして喜ぶ?」

ちきりん そういう時の気持ちって、そこまで好きなモノがあるわけじゃない私みたいな人間には想像しがたいです。私ならちょっとやってみて違うと思えば他のことをやればいいけど、スポーツ選手とか画家とか音楽家とか、小さい頃からひとつの道をまっしぐらな人って、どこかの段階で「あなたはその道では成功できません」って言われても、〝気持ち的なつぶし〟がきかないというか、敗北を受け入れるのが不可能なくらい難しそう。
ウメハラ まあそうなんですけど、それでも自己決定した上でとことん頑張ったなら、受け入れられるんじゃないかな。敗北が受け入れられない人の多くは、とことんやってないんですよ。そして自分でもそれがわかってる。後悔が残るとしたらソコなんです。

いやー、さすがウメハラさん、本当に痛いところを突いてくる。沁みる。

基本的に、人生の選択は自分の責任です。 私も一応それは理解しているつもりですし、このあたりのことは、おそらく20数年も生きていれば自然に掴めてくるものかと思います。

ただし、教育の観点からみると疑問を持たざるをえないわけです。
これって誰か教えなくていいの?
ひょっとしたら、多くの人が自分が好きなものを分からないまま、なんとなく生きてしまっているんではないの?

少なくとも、これに関する教育を、私は受けた覚えがありません。 成功した人の講演会を聞かされたり、「よく考えろよ」と言われたことはあっても、それって教育としては雑ではありませんか?
自分の人生の後悔を周りのせいにしたいとかそういうことではなく。

好きなものを突き詰めるとはどういうことか。
何をどうすれば自分で選んだと言えるのか。

そのくらい自分で考えればわかるだろう、と言われれば、その通りです。それに自分で気付いた人だけが成功するのも事実。 私の場合は(少なくとも自分の中では)かなり時間がかかりました。人によっては一生気付かないままかもしれません。

実際、私はそれについて真剣に考える機会を得たのは、大学生のときに趣味で作曲活動をしていたときでした。 音楽のプロになる気はありませんでしたが、今から思うと無意識に「つぶしのきく」方に流れてしまったのかもしれません。

つぶしのきくことばかりやっていると、これに気付けないんですよね。

とにかく「自分に恥じない」は大事にしたいところです。

最後にかのアインシュタイン先生の名言を。

悩みどころと逃げどころ (小学館新書 ち 3-1)

悩みどころと逃げどころ (小学館新書 ち 3-1)