書評『浄土真宗の信心がこんなにわかりやすいわけがない』

浄土真宗の信心がこんなにわかりやすいわけがない (響流選書)
- 作者: 石田智秀
- 出版社/メーカー: 響流書房
- 発売日: 2015/11/24
- メディア: Kindle版
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★★★
"聞いたままが信心"
読みました。
とても読みやすく「信心」について、雰囲気だけはわかったような気がします。
本当の意味で理解しようと思ったら相当大変なことは察することができたので、これ一冊読んで雰囲気だけでもわかったなら上々なんじゃないでしょうか?(と素人が言ってみる)
さて、信心。
言葉は簡単なのに、難しいです。
浄土真宗では、
だそうです。
ふむ。
自分で努力して獲得(ぎゃくとく)するものではないようです。
いまの私は、
自分と別のところに「救いの方程式」みたいなのがあって、それを客観的に理解してから自分に当てはめようとしていた感じ
がなんですよねー。これじゃたぶん間違いですよね。
阿弥陀さまから信心をいただく
つまり、
阿弥陀さまが救ってくださる
という事実があるだけ、それを知るかどうかの違い、って感じなんですかね。 そして、その確認(と定着)のために、念仏を称える。 ということでしょうか。
ふむ。わかるようなわからないような。
やはり、言葉ではなく事実として認識するところが、私には欠けているような。 ついでに、本書の「聞く」という単語が意味するところがいまいちわからない。 本書の読後にはわかったような気はしたんですが、あらためてこうして書いてみるとやっぱりわかっていないですね。
信じるものは救われる?
仏教とは直接関係ないんですが、ずっと前から気になっていたことがあります。
「信じる者は救われる」とはよく聞くけれど、じゃあ「信じない者」は??
仏教の(他の宗教でもいいですが)、その教えを知り、その上で信じ(ることができ)ないということはありうるかと思います。
また、そもそも教えをうけることができない状況にある人もいるでしょう。
これらは全て、救ってもらう人の側の都合(環境)かと思います。
たまたま教えを知る環境にいたから、救われた?
たまたまそのような環境にいなかったら、救われない(届かない)?
これは違うんじゃないかと思うんです。 神様仏様はそんなケチじゃないだろう、と。
かといって、どう捉えればいいのか、ずっと分かりませんでした。
本書を読むと、やはり書いてありました。
「<あっ!わかったぞ! ご信心ってこういうことなのか!>と思う。だからその瞬間に救いが届くのかというと、そうではない。<救いはすでに届いていた。間に合いすぎるほどに間に合っていた。>ということを、いま聞くんだぞ。」
阿弥陀さまは救ってくださるそうです。 よかった、よかった。
あれ、でも結局それを「聞く」ことができなければ苦しい気持ちからは解放されないのでは??
Miracles happen to those who belive in them.(奇跡はそれを信じる人に起きる)
本書の感想ですが、タイトルを始めとしてオタクネタがちょいちょい登場します。
これ、もしオタクの読者を意識して(仏教の敷居を下げようとか狙って)やっているならば、正直不要です。 これは元オタクとして、本書に登場するほとんどのネタを理解したうえで言っています。
私自身は、まっとうに信心について知りたかったので本書を手に取りましたが、ところどころそっちのネタを挟まれると気が散ってしょうがなかったです。別に私が気にしなければいいだけと言われればそのとおりなのですが、何か本題と関係のある深い意味があるのでは?と疑ってしまうのです。
あえて苦言を呈しましたが、著者自身がオタクと公言してますので、もしご本人がやりたくてやっているなら良いと思います。 タイトルに惹かれて手にとったというのも事実ですし。
信は願より生ずれば
念仏成仏自然なり
自然はすなわち報土なり
証大涅槃うたがはず
『高僧和讃』八二(善導賛)
いまいち消化しきれていないので文章もまとまりませんでした。これは再読が必要か。
関連
*1:本書より「こんなの絶対おかしいよ」