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書評『ひとを<嫌う>ということ』

ずっと気になっていた本を、年末年始に読みました。

ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)

ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)

ひとを<嫌う>ということ

中島義道

★★★★☆

目次

  1. すべての人を好きにはなれない
  2. 「嫌い」の諸段階
  3. 「嫌い」の原因を探る
  4. 自己嫌悪
  5. 「嫌い」と人生の豊かさ

「嫌い」とはなにか

著者の中島義道氏の本業は「戦う哲学者」ですが、これまで(おそらくこれからも)家族や知人について嫌い嫌われることが多かったそうです。

本書に紹介されている具体的なエピソードを読むとわかりますが、なかなかの偏屈者である(そしてその自覚がある)ご様子。 その経験をもとに「嫌いとは何か?」を考え抜いてまとめたのが本書になります。

さて、著者が本書で最も伝えたいのは以下の引用文に尽きます。

他人を好きになることは他人を嫌いになることこと表裏一体の関係にあるのです。 (中略) いったい、人を嫌うということとはそんなに避難されるべきことなのか。人を嫌うことは――食欲や性欲あるいはエゴイズムと同様――ごく自然であり、それをうまく運用してゆくことのうちに、人生の豊かさがあるのではないか。つまり、はじめから廃棄処分して蓋をしてしまうのではなく、「嫌い」を正確に見届けてゆくことは、「好き」と同様やはり豊かな人生を築く一環なのではないか。これが、本書で私が言いたいことなのです。

はじめにより

世間一般的に「人を好きになる」ことは推奨されている(少なくとも悪いこととは思われていない)のに、「人を嫌ってはいけない」と思い込んでいる人が多いことは、正確な数値データがなくても実感としてわかるのではないでしょうか。 私自身、少なからずそう思っているところはあります。

著者の主張としては、ただ人を嫌えと言っているわけではなく、好きも嫌いも両方の自然な感情を自然に受け入れることで、人生がより豊かに過ごせるよ、ということ。
ただし、闇雲に周囲を嫌っても自分が生きにくくなるだけ。 いくら自然な感情といっても、とかく「嫌い」は人と衝突する要因になりがちなので、正しい「嫌い方」を知っておこう、という論旨です。

ここでいう「好き嫌い」は恋愛に限りません。

私は読者としてすべての人を対象にしているのではありません。「嫌い」に躓かない人はそれでいい。自分が他人を嫌っていることに罪悪感をあまり感じない人、他人から嫌われていることをさらっとかわしている人、そこにこだわらない器用な人はそれでいい。ただそれにもんもんとこだわる(たぶん一パーセントくらいの)生きるのが困難な同胞にメッセージを送りたいのです。

5 「嫌い」と人生の豊かさ より

私は「嫌い」について、生きるのが困難なほどには悩んではいませんが、仕事上つきあいのある人で嫌いな人は当然いるわけです。 他にも、嫌いたくないのについ「嫌い」という感情を抱いてしまう人なんかもいます。

また、知人でも、他人を「嫌う」ことに罪悪感をもつあまり生きづらそうにしている人を見かけることもあり、その対応に困ることもあります。 たとえば、無闇矢鱈に自虐ネタを繰り出してくる人なんかもよくいますね。 そんなときの対応に役立つかもしれません、と書いてて思ったのですが、そんなことはなさそうな気もします。 が、他人を嫌うのを「嫌う」あまり自分を嫌うことにしたというプロセスも(皆が皆そうではないかもしれませんが)、本書で解説されています。 ちなみに本書では、他人を嫌う話だけでなく、自己嫌悪についても触れられています。

世の中には不思議な考えをする人が大勢いて、彼らは地上のすべての人を好きにならなければならないと思いこんでいる。あるいは、そこまで行かなくとも、誰をも嫌ってはならないと信じ込んでいる。ですから、そういう人は、自分がある人を嫌っていることを自覚すると、大層悩むのです。

1 すべての人を好きにはなれないより

個人的な感想としては、よくある表面的な感情コントロール自己啓発本とは一線を画しており、むしろその逆で心の根本を問い直す哲学本ではないかと思います。 まぁそこまで小難しく構えなくても、目を背けがちな感情の正体を知っておくだけでも、気持ちがすこし軽くなることもあるという経験は私もありますので、読んでおきたい本だったわけです。

「嫌い」の種類と原因

一口に「嫌い」といっても、そこには複雑な感情が絡み合っていることは、言うまでもないでしょう。 著者はそれを原因や「段階」ごとに整理分類し、ひとつひとつ定義とそれに対する「ささやかな提案」を示します。 自分の(ある人に対する)「嫌い」がどれに当てはまるかを知るだけでも、その人との上手い付き合い方を見つけるヒントになります。

著者が本書で焦点をあてるのは、「日常的な嫌い」。なにかきっかけがあって「身も震えるほど嫌う」ような憎悪ではなく、「なんとなく気に食わないやつだ」程度の「嫌い」。誰にでも普通に起こる感情について扱うわけです。

本書の難しさは、異常心理学や犯罪心理学あるいは精神病理学の分野になだれ込まないで、いかにして日常的な「嫌い」を分析することができるかにかかっている。

2 「嫌い」の諸段階より

この点では、本書の分析は成功と呼べると思います。 少なくとも、ここまで「普遍的に」「嫌い」を扱った書籍を寡聞ながら私は知りませんでした。

さて、それでは本書の示す「嫌い」の分類を見てみると、以下の8個があげられています。 (「嫌い」という感情を抱く自己正当化の原因の分類)

  1. 相手が自分の期待に応えてくれないこと
  2. 相手が現在あるいは将来自分に危害(損失)を加えるおそれがあること
  3. 相手に対する嫉妬
  4. 相手に対する軽蔑
  5. 相手が自分を「軽蔑している」という感じがすること
  6. 相手が自分を「嫌っている」という感じがすること
  7. 相手に対する絶対的無関心
  8. 相手に対する生理的・観念的な拒絶反応

わかるわー…わかるわー…(遠い目)

このリストを眺めるだけでも、なかなか鋭い分類であることが見てとれると思います。 特に5とかタイトルだけで秀逸。
しかも、この順に「嫌い」のプロセスが進んでいく様子が、詳しく解説されています。

実はこの中にも小分類があったり変形があったりするのですが、著者もこの分類は「網羅性があると自負」しているそうで、「嫌い」の研究としてはひとつの完成と見てよいのでは、と思えるレベルです。 (というか、そこまで「嫌い」について考えたことがないから…)

ここでは1つ1つ細かい紹介はしませんが、いくつか気になったところをピックアップしてみます。

「原因」とは

さて、著者は哲学者だけあって(偏見)、最初にしっかり用語の定義をしています。 一例をあげると、「嫌い」の「原因」とは?という話。

原因とは、ある自然な傾向を前提とし、それからの逸脱を引き起こしたものを探るという態度にもとづくからです。 (中略) 原因を追求するとは、原因に罪=責任を押しつけることによって、自分がその力から解放されることです。原因を知れば次の事故を防ぐことができる。しかし、かならずしも原因探求の動機はこれだけではない。 (中略) 「嫌い」とは不快な感情ですから、これを取り除きたいのですが、それができない場合もせめて原因を探求して、それに罪を帰することによって、自分は不快感から解放されたい。こういう企みがあるのです。

3 「嫌い」の原因を探る

とはいえ、これで本当の原因がわからなければ苦痛が続くかといえば、そうでもない。 どんなハチャメチャな論理であれ、納得できる原因さえ見つかれば、人は少なくとも「不快感」からは脱せられるからです。 そこで最終的には「8. 相手に対する生理的・観念的な拒絶反応」つまり「なんとなくだけど、とにかく嫌い」に辿り着いたりするのですが、ここで本当の原因にどれだけ真剣に向き合うか、が本当の勝負といったところでしょうか。

「善人」とは

これは「1. 相手が自分の期待に応えてくれないこと」の一部。 ここが私が個人的に最も共感したところです。

人とは他人と感情を共有したい人のことです。他人が喜ぶときには共に喜び、悲しむときには共に悲しむ。 (中略) ですから、善人とは「嫌い」に向き合わない人と言えます。この人種には大きく分類して二通りある。一つは、自分はいつも善意の被害者であり、相手がいつも加害者であるという人。自分の加害性にまったく盲目なのです。こういう善人は常に愚痴ばかり言っている。 (中略) もう一つのタイプは、全て他人は善人だとみなす人。相手の悪意も善意に切り替えて解釈しようとし、すべての人を好きになるべきだと考えている人。こういう人も、これは意志というより体感的なものですから、こう考えないと落ち着かないのです。 (中略) 両方のタイプは逆のベクトルを持っているように見えますが、同じ穴のムジナ。なぜなら、両者とも、自分と相手との対立を正確に測定しないからです。前者は、自己批判能力が絶望的に欠如している。後者は、さらにそれに輪をかけて他人批判能力までも欠如しているのです。

3 「嫌い」の原因を探るより

これは手厳しい。。。 「嫌い」の分析とはこういうこととはいえ、ここまでドラスティックに分析するとは。 個人的には、著者の観念がすこし厭世的にすぎるようにも、いくらか感じますが。 それでも、「嫌い」の研究としては非常に深く掘り下げられていると思います。

それにしても、世の中、善人でありたいと思う人は多いでしょうから(それが単なる思い込みだとしても)、著者への風当たりもさぞ強かろうと察します。 著者の意図を正しく汲み取ることができずに、勝手に怒り出す人も多そうです。 それを当然わかっていて、尚且つ、それが人のためになると信じて、ここまで徹底的に「嫌い」を語り尽くす著者に、敬意さえ感じます。

「嫌い」とは自然なことと認める

やはりどの「嫌い」にも共通するのは、その原因となる感情は仕方のないものである、ということ。 嫌われている側からすると理不尽な感情が原因になることもありますが(その感情を相手に伝えるかは別問題)、理不尽だからといってその感情を無理に消そうとするのではなく、その感情の起こる原因をくわしく掘り下げていくことで気持ちの整理をつけよう、というのが著者の主張になります。

私の「思想」は「ひとを好きになることと同様ひとを嫌いになることの自然性にしっかり目を向けよ」と書いてしまえば一行で終わってしまうほど簡単なものです。

5 「嫌い」と人生の豊かさ

私自身「嫌い」についてそこまでネガティブな感情はもってませんが、リアル社会では「嫌い」について語ることが取扱注意なことは分かっているつもりです。 もちろん生きている以上避けることはできないのですが、できるなら避けたい。 「善人」ですねー、イヤですねー。 そんなとき人間は、物語で「嫌い」について描くことを求めている気もします。

たとえば有名どころでいえば『3月のライオン』は嫌うことをしっかり描いている好例かと思います。 学校でのいじめのエピソードもそうだし、主人公の「家族」も嫌いあっている。 その「嫌い」を隠さず、無理になくそうともせず、ざわざわした感情を(苦悩しつつも)正面から受け止め、その上で対処をしていく過程を描く。 棋士それぞれの「自分との戦い」についても、言ってみれば自己嫌悪との戦いでもあるわけで、それをどう乗り越えるかという話です。 私は、あの作品はそこに最大の価値があると思っています。

あるいは、相性の悪い芸能人同士の嫌い合っている様子を映すバラエティー番組なんかも、「嫌い」をエンターテイメント化しています。 正直、悪趣味だと思いますが、それはそれで面白いのも事実。

もっとライトな例でいえば、本や音楽の話をするときに感じることはあります。
好きな作品や作者の話のときは普通の反応が返ってくるのですが、嫌いな作品の話をすると感情的になる人と、その話題に触れないようにする人の2タイプがいるかと思います。 嫌いな作品の話でも「ふーん、そこが嫌いなんだね」で済ませればいいと思うのですが、私の周りにはうまく「嫌う」ことができる人はあまり多くないと感じます。もちろん自分も含めて。 (もちろん、そもそもそんなに嫌いなものの話はしませんが、ときどきうっかり言っちゃうこともあるじゃないですか)

人間は社会的なイキモノですので、他人との協調の中で生きることが必須です。 生きていれば誰かを嫌う(ことが必要になる)ケースは必ず訪れるので、そのときうまく「嫌う」ことができるように、あるいは「自分を守れる」ように、こうした本を読んで心構えをしておくのも悪くないかと思います。 次は「嫌い」と「無関心」と「笑い」の関連について、こんな感じの本が読んでみたいと思いました(が、そんなのあるんでしょうか…)。

人間の心の根源的な部分に、あくまでも客観的に、ズカズカと踏み込む本書で(褒め言葉)すこし自分の心と生き方を見直してみようと思った年末年始でした。

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toyokeizai.net