木牛流馬が動かない

テクノロジーや気付きによる日常生活のアップデートに焦点をあて、個人と世界が変わる瞬間に何が起きるのかを見極めるブログ。テーマは人類史、芸術文化、便利ツール、育児記録、書評など。

木牛流馬が動かない

言語化についてのツイートの記録(メモ)

先週の更新をサボりましたごめんなさい。 ちょっと本ブログとは別プロジェクトがクライマックスに差し掛かっていたので、お休みさせてもらいました。 詳細は省きますが、ちょうど昨夜、私の担当作業分が完了したので、更新再開です。

ただし、今日なんにもブログネタ考えてなかったので、ちょっと思うところがあってツイートした一連の記録を残すことにします。手抜きです。

元ツイート

まずきっかけはこちら。

いいですねー。 言語化の変態向けの本、読みたいですね―。

で、それを読んで、ちょっと思ったことをツイートしてみました。

超高性能な言語情報圧縮フォーマットとしての俳句

こんな何いってんだかわからないクソツイに、ありがたいことにリプいただきました。

ほほう、深い。 おそらくオリジナルはこちらですね。

VR(バーチャルリアリティ)界の一方の雄、東大の暦本教授がこの発言をされる、というところにシビレます。 今調べたら、ソニーコンピュータサイエンス研究所の副所長も兼務されてたんですね。

で、それに対する私の返事。

これに関しては、直接の答えではないけれども、再び暦本教授を参照させていただく。

コンピューターで例えると、たとえばWindowsなら同一コマンドはまったく同じ機能をもつように思えますが、実はCPUなどのハードウェアや接続している外部機器、インストールしている他のソフトウェアなどによって動作が変わるものです。 それと同じように、俳句という17文字のコマンドは人間に入力されると、ある程度の再現性をもって映像(情景、記憶、シチュエーション、シナリオなど)が目に浮かべることができる機能をもちます。

ただし、コマンドはその実行環境が重要。 同じように俳句を入力しても、個人個人で異なるハードウェアを持っているなら、その出力(想起される映像)は一見似ていても、ディテールをよく見ると全く違うものであったりするわけです。 と、私は理解しました。なるほどねー

ただ、そうなると次の疑問が生まれます。

同じ俳句から複数の人がある程度似た映像を想起することができるとして、より多くの人が共通して見ることのできる映像と、ごく少数しか見られない映像(大多数との差異)があるなら、そこにある違いはなんなのでしょうか?

どうすれば、多くの人に共通して見られる映像データベースを、見る人の脳に(あらかじめ)詰め込むことができるのでしょうか?

まぁ答えはここでは出ないんですが、その脳内の共通データベースは我々が「文化」と呼んでいるものに近いだろう、と推測しています。まぁその「文化」がよく分からないので本読んだり美術館行ったりしてるんですけどね。

ならば、教育とコンテンツの影響は大きいですね。現代ならTVも無関係ではなさそう。

[★]

言語化は経験と記憶に依存

再び頂いたリプについて。

最低限の言語化スキルがないとお話にならない、ということですね。 精進します…

言語化プロセスの整理

某雑誌で某雑曲家の方がこんなことをいっていました

曲を作るのは、後ろからそっと虫を捕まえるのと似ている

Sound & Recording Magazine 2018年1月号

私は「曲を作る」ことはこれまで書いてきた「言語化」に近い作業だと考えています。つまり、どちらも自分の内面にある思考やなんらかの感情を認識し、なるべくそのままの形ですくい上げて、人に伝わる表現として外部化する作業です。 この分類(手順)の是非についてには異論反論あるでしょうが、私はこう考えているということで。

で、この各手順をうまくやらないと、「内面にある思考やなんらかの感情」がうまく捉えられない、と考えてます。 上の引用文は、それを虫のように逃げていってしまう捉えにくいもの(でもうまくやれば捕まえられるもの)、という比喩です。

ちなみに、この発言をした作曲家さんは同記事で、この作業のときはデジタル機器を使わずに紙の楽譜で曲をつくる、というメソッドを紹介していました。こういう虫取り網は個人依存の部分も多く、なかなかメソッド化されにくいところです。

さて、ここで3つのステップに分けましたが、それぞれに必要となるスキルを考えたときに、私は以下のように考えています。

  1. 「思考や感情の認識」 → 瞑想や自己との対話 2.「すくい上げる」 → ?
    3.「表現として外部化」 → 芸術的テクニック

1つめは、そんな思考や感情が「ある」ことを認識するだけ。おそらく観察系の瞑想が効くと思います。

この2つめがわからないのですが、思考や感情を表現として外部化するための準備が必要と思っています。たぶんここが芸術作品の「メッセージ」に相当する部分ではないかと推測しています。

3つ目は、文章力や作曲法など、いわゆる芸術的スキル。ここは練習あるのみ。

このツイートの「自己の外部化」が2番、「他人に伝わる部分」が3番、に相当するのではないかと思います。 一般的に「スキル」といえば3番を指すことが多いけど、より重要なのが2番じゃないかな、と。

作詞少女~詞をなめてた私が知った8つの技術と勇気の話~

作詞少女~詞をなめてた私が知った8つの技術と勇気の話~

余談ですが、おそらく『作詞少女』はそのへんのことが書かれている、と推測しています。 すごく読みたい本なのですが、私はKindleで読みたいので、 実は未読です。そろそろ紙の本で買わないといけないかも。

まとまらないけど、おしまい。 来週からちゃんと書きます。

Civ4五大国決戦マルチ実況・木牛流馬視点(2)青銅器時代

Civilization4マルチプレイのマルチ実況2回目です。

これまでのあらすじ

  • 希望は天上にありの弦音なるよ氏(+2人)でゲーム中です。
  • 建国と首都ウルンディ建設
  • 仏教を創始

前回はこちら。 euphoniumize-45th.hatenablog.com

バグで完全に出遅れた

まだまだ(ゲーム内)時代は古代なので、せっせと都市を作って国力を増やさなければなりません。

ところが、なぜか都市がつくれない。 開拓者ユニットが都市をつくるのですが、なぜかボタンを押しても土地を移動しても、エラー音が鳴るのみ。

他プレイヤーに相談してみたところ、どうやらゲームのバグの可能性が濃厚。 どうやらたまに起きるみたいです。おい、フザケンなよ。。。

いったんゲームを再起動。 まったく興が削がれるとはこのことよ… 再起動後は、期待通り都市を作ることができました。 (他プレイヤーの皆様すみませんでした)

これの何が痛いって、私が都市を作ろうと思っていた場所に、他国が都市を作ってしまったこと。 バグと気づくまでに数ターン無駄にしてしまったことが大きいです。

もちろんその土地には奪われないように戦士を配置していたのですが、他国の開拓者を私は見ることができなかったようで1、出し抜かれてしまいました。ぐぬぬ

南方の国境をかためる

その憎き都市は、具体的には馬国の寧夏。 我が国からみて、首都ウルンディの南西にあたります。

f:id:euphoniumize-45th:20180402012545p:plain この地図では、右上にチラ見えの黄色が我が国の領土。

ここは資源が豊富な地域で、ワイン(おじいさんマーク)、(寧夏の真上)、石材(石のマーク)がとれます。それだけで魅力的な土地。

さらに、かつゲーム後半には軍事上の戦略拠点にもなりうる、重要地点と私は考えています。 我がシャカ族にとってだけでなく。

f:id:euphoniumize-45th:20180402014447p:plain

それは、この地域は、現時点で3カ国(現時点で見えていないが、さらに西側に別の国があると仮定)と隣接しているから。 まずそれだけで後々モメそうだと直感的に思い、急いで確保したかったのが1つ。

また、我が国は大陸北方にあることから、のちのち進軍(南下)する際の拠点になりうる土地でもあります。

さらに、ゲームが進んで(現時点で見えていませんが)もし西方に大国を発見した場合に備えて、西方に対する防衛拠点にもなる、と考えました。 以上の理由から、個人的には、W.W.1のバルカン半島に匹敵するレベルの重要地域と思ってます。

余談ですが、馬国がここに都市を配置したマスは、私の想定より数マスずれています。

えー、そこーーー??
ここに都市作るなら海沿いでしょうが。。

まぁ作られてしまったものはしょうがないので、ここは作戦の練り直しです。 その土地…いずれ貰い受ける……ゴゴゴゴ(宣言)

まずは国土防衛

さらに、これ(寧夏建設)によって我が国の対南方(実質的に馬国)防衛線をつくる作業の優先度が上がりました。

その一環として、第3の都市ノバンバを建設。 国土防衛と、例の半島の付け根をおさえる意図を兼ねて、軍港都市です。 付け根は完全には抑えられませんが、まぁこの状況ではよしとします。


半島は付け根を抑えたものが支配する

さらに、馬国のこちらへの領土拡大を防ぐべく、戦士2ユニットを国境線に配備。 こいつらをどこかへ移動させてしまうと、おそらく一気に馬国の領土が広がってしまうため2、これは動かせない。

成長と防衛のバランスが重要なゲームなので、どんどん国を育てていきたいところですが、まずは防衛を固める。 といっても馬国と国境をめぐって争う気は(今は)ないので、友好的にいこうと思いますよ。

食料の確保も重要

順番が前後しましたが、第二の都市ウムグングンドロヴも建設しました。 シャカ族の固有名詞が覚えられん。。。

我が国の南側、馬国との国境付近です。

ここは大農業地帯のため、食料生産に期待が持てます。 すでに馬国の領土が近くに迫っていたので、これは急ぎました。

f:id:euphoniumize-45th:20180402012424p:plain パンの数が食糧生産数を表す。

この都市建設で、我が国の成長率がかなり上がりました。 やれやれ、ようやく他国に追いつくメドがついたかな。

第4の都市を建設するも…

さて、我が国東側には、山岳地帯があります。 古来から(リアルでも)山は天然の要害と言われており、うまく使えば最高の防御施設になるわけです。

というわで、そこに第4の都市ブラワイオを建設。 山のためにユニットが通れる道は限られているので、そこを抑える役目です。 これでひとまず東の防衛線はOK。

と思ったら、蛮族(国を持たないAI)がドキドキ急接近!

戦士を送りこむ間もなく、作ったばかりの都市が破壊されました。 f:id:euphoniumize-45th:20180402011203p:plain

おのれ…ゆるさん…

ちなみに、ブラワイオ破壊とほぼ時期を同じくして、馬国の都市寧夏も別の蛮族によって略奪された模様。 f:id:euphoniumize-45th:20180402010844p:plain

ざまぁぁぁぁぁ!!

といったところで、リアル世界のタイムリミット。 今回はここまでです。

次回以降の戦略

内政

やっと内政が安定してきたので、そろそろ海洋系ユニットを作り始めようかな、と思います。 我が国のまわりの海は、カニなどの海洋資源もちらほら見られるので、これを見逃す手はない。

あとはテクノロジー開発ですね。 他国に先んじて有効なテクノロジーを入手することで、国土開発的にも軍事的にも優位に立つことができます。 やはりここは「尖った」テクノロジーを開発することで他国と交渉を有利にしたいところ。

我が国は領土が東西に広くなりそうなので、早めに移動系のユニット(たとえば騎兵隊とか)を作る必要がありそう。 次回は、そのためのテクノロジー開発を目指す所存。

外交

ゲームスコア的には、弦の国餃子国にリードを許している状況なので、そろそろ手を売っておかねば。

でも、まずは地図を埋めることからですね。 実質的に、現時点では馬国しか見えていませんので。

ゲーム実況

今回の実況の裏事情は、弦の民さんの中の人のブログでも公開しています。 私の雑なメモよりもしっかり記録・記述しているので、楽しめるはず。
(テクノロジー開発時期はメモしておけばよかったなー)

こちらもどうぞ。 hiah.minibird.jp

おしまい。


  1. 見えなかったのは他プレイヤーの意図ではなく、ゲームシステム上そういうものみたいです。

  2. ゲームシステム上自動的にそうなるみたい。(我々は「文化侵略」と呼んでます)

題名のない美術館(に行きたい)

美術館いきますか?

行ったり行かなったり、行く理由も行かない理由も人さまざまだと思いますが、割と私がよく聞く行かない理由(の1つ)に「よく分からないから」というのがあります。

私は美術館は好きですが、絵の専門的な背景はまったく分かりません。一応、最低限の勉強はしようと思って、数年前に美術検定3級を取得しましたが、とてもとても分かった気はしません。 でも、絵を観ることは好きなので、素人目線で眺めるだけでいいと思っています。

いまは育児中なのでほとんど足を運べていないんですけどね。

さて、友人や知人と話していると、どうもその「よく分からない」がネックになって、そもそも美術館に行かない(行くことが選択肢に上がらない)ケースが少なからずあるように思います。

好みはそれぞれあるのですが、分からないかもしれないというだけで行かない、というのは勿体ない、と思うのです。

「ふつう」の美術館

よくある美術館の順路は、たいてい以下のようになっています。

  1. 入口 & 音声ガイド貸出
  2. 主催者の「ごあいさつ」。海外の美術作品の招聘なら所蔵美術館からのあいさつも。長い。
  3. 展示テーマの概略説明。1画家に絞った展示なら、略歴。
  4. 絵を見る。題名と解説も併記されることが多い。メイン作品はたいてい混む。
  5. 出口
  6. ミュージアムショップ

もちろん館や展示によって多少前後したり省略したりといったバラツキはあります。

ただ、ここで私がいいたいのは、この美術館の展示の順路、見る側のこと考えてますか?ということ。

たとえば、↑の順路2と3 。 まだ一枚も絵を見ていないのに、いきなり長文の解説とか書いてあっても、興ざめだわアタマに入らないわ。 と思いません? こっちは、まず絵だけを見たいんですよ!

というわけで

こんな美術館に行きたいな、と考えてみました。 それがこれ。

f:id:euphoniumize-45th:20180326225251j:plain

順路を追っていくと、

  1. 入口 (▲IN)
  2. 展示のタイトル。主催者の「ごあいさつ」は無し。
  3. 1周目は絵だけ観られる。絵の題名も解説も無し。
  4. 一通り観た後に、主催者の「ごあいさつ」や全体的な解説
  5. 2周目は、もう一度同じ順路を辿る。ただし今回は各作品のタイトルと解説あり。1周目と同じ場所まで絵に近づくことも可能。
  6. 出口 (▼OUT)
  7. ミュージアムショップ

説明:順路3

言うまでもなくキモは、順路3と順路5。 この順路では、同じ絵を2回観るわけですが、大きな違いがあります。

それが、題名と解説の有無。

1回目は、ただ絵だけを見るのです。 なんも知識も入れず、ただ見たまま、感じるままに、ウロウロします。

説明:順路4

一通り回ったところで、主催者の「ごあいさつ」と全体的な解説が始まります。 一度げ見ているので、比較的アタマにも入りやすいのでは?と思います。

音声解説サービスをやるなら、ここで機材貸出です。

説明:順路5

2度目の鑑賞です。 今度は、タイトルと作品解説を読むことができます。

この順路で重要なのが、題名と作品を並べて配置しないこと。 作品に向かって、後ろに題名と解説を置くのです。

2回めが遠くからの鑑賞だけだと面白くないので、できれば再び近くで見られるように、空間的には通行可能になっているとウレシイ。

出口

上の図だと、出口付近に物理的な制約があります。 2周目に突入する人と出口に向かう人がぶつかりますね。 中央のデッドスペースに出口となるエレベーターでもある建物ならばいいのですが、もうすこし工夫は必要ですね。 これ以上考える気もありませんが。

この配置で何がおこるか

この配置にすることで、1周目に、先入観なく絵を見ることができます。 そして2周目で、美術史的背景や画家の生い立ちなどの情報を得て、違った視点で絵が楽しめるのです。

ここでの懸念としては、2回目に解説を読んで「答え合わせ」をしてしまうこと。 鑑賞時に抱いた個人個人の感動や印象こそが鑑賞にとって重要だと私は考えてるのですが、(2周目に)「専門家」の解説を読んでそれが(1周目の)自分の感想と異なるものだったときに、(1周目の)自分の感想が上書きされて消されてしまう恐れがあります。初心者は特に。

まぁこれは普通の展示でも起こりうることですが、それでもこの配置にすることで、「自分の感想」を持つ前に「専門家の解説」を入れてしまう事態に陥るより何倍もマシかと思います。

ヒントはうれしいですけど、どう感じるかはのだめのモノです

のだめカンタービレ

(余談)作品とタイトルの関係について

とまぁ、ここまでが言いたかっただけなので、あとは余談です。

さて、芸術作品にタイトルって必要だと思いますか?

画家の若い頃の作品なんかだと、ただのデッサンや習作にはタイトルがついていないことも多いのです。しかし、タイトルがないからといってその絵の芸術的価値が下がるのかといえば、そんなことはなく。逆にタイトルを付けることで価値が上がることはあるかもしれません。

あるいは、最新研究の結果、タイトル(通称)が変わることも多々あります。

真珠の耳飾りの少女》は《青いターバンの少女》もしくは《ターバンを巻いた少女》とも呼ばれてました。重要なはずの絵のタイトルがコロコロと変わっているのです。

また、上記サイトによれば、絵にタイトルを付けるのはルネサンス以降の様式とのこと。 作家本人ではない第3者がタイトルを付けることも多いようです。

私は、芸術作品にタイトルは必ずしも必用ではなく、なにかしらの表現的意図があるならつければよい、と思っています。ただ単に作品の説明のためならばタイトルは不要だし、ただし鑑賞や売買の利便性のために必用ならそれはやむなし(表現としての題名の範疇から外れる)、と考えてます。

ここで自分の意見を補強するための、偉人の名言の引用です。畑違いですが作曲家の御大、伊福部昭氏(代表作:ゴジラのテーマ)の名言を引用します。

自分の画筆ではとても表現できないことを、題名によって劇的要素を借用して、その作品の感動を高めようともくろんでいるのであり、紙芝居の絵と同様なのです。
(中略)
私たちは、このように音楽以外のものの助けによって、その音楽に意味あらしめようとするような作品を軽蔑しなければなりません。
- 伊福部昭『音楽入門』

この引用は、ただタイトルをつける行為を貶める意図ではなく、絵なり音楽なりはその表現だけをもって表現するべき、という主張です。表現力不足をタイトルで補うな、と。「軽蔑」は言い過ぎの気もしますが。

で、やっとここで最初の話に戻ります。

かりに作家にそのような意図がなかったとしても、たとえば絵画作品の展示の手法によってそのように誤解される事態が起こりうるのは問題なのでは?と思うわけです。 そして、もしそうなら(それを避けられるなら)避けるべきでは?ということ。

そのためにも、先入観なく鑑賞できるような場があってもいいのではないか?と思ったのです。

とはいえ、現代はコンテキストを提示して作品を蒐集するキュレーションの時代で、それはそれで一定の価値を生み出していることも事実。それ自体を否定する気はなくて、冒頭の「ごあいさつ」や各作品のタイトル札の掲示も重要な指標であることは間違いありません。それでも、あえてこれを書いたのは、あまりにテンプレ的な展示方法に陥っていやしませんか、と思ったからです。

まとめ

まとまらなくてすみません。 誰か、これで美術展やってくれませんかね??

参考

画題で読み解く日本の絵画

画題で読み解く日本の絵画

未読だけど読みたい。